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継承 ハンセン病問題~「なくさない」ことの大切さ~

2020年7月1日
読了時間: 19分

2020.4.23脱稿

国立駿河療養所


 療養所の敷地に入ったと思いきや、建物が見えてくるのはそこから約2キロメートルの坂を登り終えたときだ。坂道の周りには多くの木々が立ち並び、間から溢れ出る光に包まれながら森林浴をしている気分になる。その美しい光景が伝えるのは、この地で生き抜いてきた人たちの力強さなのだろうか。

 しかし、それほどまでの山奥。隔絶された施設と言っても過言ではない。光の神々しさとは裏腹に、施設内の史跡がそこにもたらされた不合理な隔離政策の歴史を突きつけてくる。

 静岡県御殿場市にある国立駿河療養所。1944(昭和19)年、国立ハンセン病療養所の中で、唯一傷痍軍人の患者のための施設として竣工。1946(昭和21)年からは、軍人以外の患者の入所も進められた。愛知県、三重県、岐阜県、静岡県出身の患者が多かったという。入所者の平均年齢は80代後半に差しかかり、医療体制の充実が求められている。最も多いときで470名超を収容していたが、取材当時には46名。ほとんどの方が独身寮や夫婦舎ではなく、第1~第5まである「センター」で生活している(ただし、第4センターはない)。

 事務本館などの建物がようやく見えてきたかと思いきや、そこからさらに急な坂道が続いていた。アップダウンの激しさには、20代半ばで特段の身体障害もない私でも息が上がるほどだ。驚いたのは、療養所の入口から納骨堂まではひたすら登り坂だったこと。そうした道のりが、入所者の自由な移動を阻んでいる。現在、移動は職員が車を使って補助を行うことが多いという。入所者の中には電動車いすを使った移動を試みる方も見受けられた。この場所に隔離を強制された事実は、高齢化とともにさらなる厳しさを生み出していることになる。立地が悪く人目に触れることもなかっただろうこの地の実相。果たして、入所者は何を思いながら生きてきたのだろうか。

小鹿美佐雄さん


 この駿河の地で、16年もの間入所者自治会長を務めている人がいる。小鹿美佐雄(おじかみさお)さん。今年で78歳を迎える小鹿さんだが、今も自治会の執務や講演活動に精を出す。

 「自分の人生を否定したくないよね。どんなに悪かったとしても、自分はそうやって生きてきたわけだから」

 ご自身の半生をこのように総括した小鹿さん。深く考えながら、ゆっくりと丁寧な口調で私の質問に答えた。ときおり見せるユーモアとともに、療養所の過去や現在、そしてご自身の体験を仔細に語ってくれた。果たして我々ができることは何か。その語りが、ハンセン病問題の複雑さと啓発のヒントを明らかにしてくれた。


駿河療養所が抱える「医療体制」問題

 小鹿さんが自治会長として最も力を入れているのは、医療体制の整備だ。

 「お医者さんを何とかしたいですね。今ここ(駿河療養所)に所長がいないんですよ。兼任になってるわけ。3月までは多磨全生園(=東京都東村山市)とここ。4月からは邑久光明園(=岡山県瀬戸内市)とここが兼任になります」

 駿河療養所には医師が3人しかいないうえ、専属医は副所長だけのため当直ができない。日曜日には外部の医師に日直、当直をお願いしている。入所者の診察には圧倒的に数が足りておらず、医師が駿河療養所に赴任を希望することもあまり考えられないという。また、入所者と医師の相性の問題もあり、一概に医師を呼べば解決するというわけでもない。

 小鹿さんも持病の治療に不安を抱えている。

 「私はぜんそくを持っているものですから、気管支の先生、呼吸器の先生が必要なんですが、今は月に一回しか来てくれていないです。なんとか落ち着いていますので、なんとかなってますけど、発作が起きたときには近くの病院に担ぎこまれることになりそうですね」

 他の入所者に関しても「毎日誰かが病院に行っている」と話す。療養所内で対処できないことから、病気の発見が遅れ初期的な処置が施せないことも考えられる。下手をすれば、それが致命的になってしまうという。不合理な隔離を強制されたうえに、入所者をここまで苦しめるのは、あまりにも冷酷ではないだろうか。医療体制の整備は、入所者の生命を守るうえで看過できない問題であると痛感させられた。

小鹿さんのハンセン病発症と収容時のエピソード

 自治会長として忙しい日々を送る小鹿さん。その半生はどのようなものだったのか。

 1942(昭和17)年、愛知県に生まれた小鹿さんは、小学2年のときハンセン病を発症。駿河療養所で確定診断を受けた後、一般的な入所事例とは異なり「即入院」とはならならず、一度家に帰らせてもらったという。

 「昭和25年の2月から駿河療養所に収容される6月までは家にいたわけです。その間学校にも行けたわけですよ。『学校行くな』って親に言われたのは、ここに入所する1週間か10日前ですね。『もう行かなくていいよ』って言われて。あんまり学校が好きじゃなかったから『ああ、よかった』って思ったけど、遊べると思ったら誰も相手がいない。みんな学校行っちゃってるから」

 やがて収容当日となり、数名の患者とともに名古屋駅から三島駅まで「お召し列車」で運ばれた。

 「名古屋駅で列車に乗るために待合室からホームまで行ったところ、列車の一番後ろの客車を(愛知)県の方で借りきっていました。一番後ろまで行くわけですから、延々とホームを歩かなければならないわけですよ。そのときに、私たちの後ろを職員が消毒してついてきたわけです」

 小鹿さんらが乗った車両には「伝染病患者輸送中につき一般の者立入禁止」の貼紙がしてあった。愛知県ではこうした「お召し列車」による収容が、他の都道府県に比べて遅い時期まで行われていたと言われている。

 発症したときの心境をお聞きすると、「ハンセン病だということがわからなかった。ハンセン病って聞いてもどんな病気かわからないから、そんなに深刻に考えられなかったんじゃないかな」と振り返った。発症時は小学2年だったことから、なおさらご自身の状況がよくわからなかったそうだ。

 また、「社会からの目」については意外な答えが返ってきた。

 「療養所に来るときも隣近所の人がお別れに来てくれていたから、そんなに深刻なかんじで夜逃げみたいにしたわけじゃなくて。何人か見送りに来てくれとったから」

 小鹿さんが収容された1950(昭和25)年の時点では、未だ戦後の無らい県運動が厳然と生きていた。しかし、出生地周辺ではそうした圧力は感じられなかったという。今思えば、見送ってくれた人たちも無らい県運動を知らなかった可能性もあると推測してくれた。

駿河療養所での生活とご家族との関係

 小学3年で入所した小鹿さん。隔離されているという意識をはっきり持ったのは「中学生になったときから」だった。一方で、入所生活については次のように振り返る。

 「療養所にいるとみんな同じじゃないですか。障害の程度の差はあるけど、みんなハンセン病じゃないですか。だからそういう点では、差別とかそういうものはあまり感じなかったですね」「入所者全体の関係もこじれてるっていうかんじはなかったと思います。見た目では仲良くやっていたって言っていいんじゃないかな」

 ご家族についても「父親がちょくちょく面会に来ていた」といい、4人の兄弟とも良好な関係を続けていたという。小鹿さんの入所後、住んでいた家や通っていた小学校では消毒が行われた。しかし家族は、家を消毒されても住まいを変えることはなく、周囲から差別を受けたという話も聞いていない。これまで複数の回復者の取材を行ってきた私は、その半生を聞く度、必ずと言っていいほど回復者のご家族に対する差別の実態に胸を痛めてきた。そのため、小鹿さんのご家族のようなエピソードを聞くのは初めてだった。ハンセン病問題の多元性を認識することの重要性を、改めて突きつけられた気がする。

駿河会事務所


体調不良による葛藤と自治会活動への参加

 小中学生時代を駿河療養所で過ごした小鹿さんはその後、難関試験を突破し、長島愛生園(=岡山県瀬戸内市)内の邑久高等学校新良田教室に入学した。しかし、手に症状が現れ葛藤を抱えることもあったという。

 「高校3年の夏頃から手が完全に悪くなってきて、そのときに学校やめようかなって思ったんですね。ところが、『いいか』と思って。ここにいたほうが楽しいし、同じぐらいの年齢がたくさんいたからね」

 卒業後は駿河療養所に帰ってきたが、体調不良が続き「3年ほど病室で寝ていた」と話す。

 「神経痛で、痛いというよりだるい。自分の手が重くなるわけですね。自分の手が重くなることなんてないじゃないですか、普段生活しているときに。それがものすごく重く感じるようになっちゃうわけですね」「そうすると気力がだんだんなくなってくるわけね。何かをやろうっていう気が何にもなくなってしまって。その日がなんとか過ごせればいいやっていうのが何日も続いて」

 多剤併用療法などで、ハンセン病はたしかに特段の後遺症もなく完治するようにはなった。無らい県運動でさかんに唱えられたような「恐ろしい伝染病」でないことは言うまでもない。ただ、小鹿さんをはじめ多くの回復者は後遺症をお持ちであることもまた事実だ。高齢化が進む療養所で、後遺症による障害に配慮しながら、入所者の生活環境を安定させる意識も絶えず持っておくべきだろう。

 後遺症を抱えながらも小鹿さんは、「色々と相談に乗ってもらっていた方」からの誘いを受け、自治会に参加することを決めたという。参加当初は非常勤で週に1度ほど活動していた。

 「鉛筆やペンが後遺症で持てなくなって、そうなると役員やっても記録とれるわけでないし、これじゃいかんということで字を書く練習を一生懸命しましたね」「力が入らないからボールペンの太くてインクの出がいいやつを探すとか。毎日少しでもやった方がいいって言われてやりましたけどね」

 自治会活動を続ける理由については「正直言うと、ここまで来てしまうとやめるにやめられなくなってしまっている」と苦笑いを浮かべた。

 「いま入所者は46人なんですよ。自治会がないと、色んなことで全療協の本部との連絡が途絶えてしまいます。それはそれで困るから」

 入所者が減少し高齢化が進む山奥の療養所で、小鹿さんの存在は大きいに違いない。

恩賜公園近くからの景色


「ふるさと」

 「差別はあまり感じなかった」と語る小鹿さんだが、「ふるさと」に対しては複雑な思いを募らせた。

 「私は『ふるさとはどこですか?』って聞かれたら、『療養所しかないよ』って考え方しとったんですよ。まあ、『生まれたところはどこですか?』と聞かれれば別ですけど、『ふるさと』って言われるとちょっと違うんですよ。やっぱり『ふるさと』っていうのは、自分にとって懐かしいところであったり、そこに懐かしい人がいたりするから『ふるさと』に行ってみたいとか、帰りたいとかなると思うんだけど、そういうのが全然なかったものだから」

 小学3年から入所し、出生地よりも療養所周辺の知識の方がある小鹿さんにとって、強いて当てはまる「ふるさと」は療養所だという。小鹿さんのように出生地を「ふるさと」だと捉えない回復者は他にもいる。それに対して、この話を講演で聞いた一般の参加者には非常に驚かれるそうだ。

 しかし、ある講演の終わりにこんなことがあった。

 「私が会長になってから、『地元で講演してくれないか?』っていう依頼が来たんですね。会場行って一番前に何人か固まって座っている人たちがいました。私その人たちを全然覚えてないもんですから、『えらい熱心な人がいるな』と思って(笑)。そうじゃなくて、私を知っているからそこに座っていて、講演が終わったらすぐに、その人たちが立って私のところへ来て『話をさせて。子どものとき一緒に遊んだ』とかそういう話をして。非常に驚いてね」「それが嬉しかった。忘れないでいてくれた人がいたんだっていうね。そのときに『ふるさと』というものに対する考え方が少し変わりましたね」

火葬場跡


社会からの差別の存在

 駿河療養所に対する「社会からの目」についても教えてくれた。

 療養所にいる限りは差別を感じることは少なかったが、一歩外に出ると、その刃が入所者に向けられてきたという。昭和20年代前半のこととして、小鹿さんは次のような話を聞かせてくれた。

 「療養所の下にある岩波駅で汽車に乗ろうとしても、切符が買えないってこともあったわけね。療養所から来たということがわかるわけね。結局は田舎の駅だから。全然見たことがない人が来ると、『どっから来たんだ』ってことになる」

 また、買い物に行ったとき物を売ってもらえないこともあった。そのような差別は、反対闘争が行われた戦後のらい予防法への改正後も続いた。憲法で保障されているはずの権利がハンセン病患者からは科学的根拠もなく奪われていたことを意味する。

 さらに、差別は療養所周辺の住民にも及んだ。療養所がつくられた御殿場市神山に対しては「あそこの野菜を買うな」「神山からは嫁をもらうな」といった言葉を吐く者もいたという。ハンセン病に対する無知がこうして差別の広がりを生んでしまった。

 昭和30年代になり、これらの差別は一応の落ち着きをみせた。だが、依然として駿河療養所周辺では、ハンセン病に対する理解が進んでいない現実もある。差別が染みついた歴史からの前進は、決して容易ではないようだ。

差別解決への道筋と啓発のあり方

 小鹿さんの入所時のエピソードとは対照的に、社会からの深刻な差別はたしかに存在した。小鹿さん自身も、昭和40年代、岡山県で友人と3~4人で食堂に行ったところ「食事を出せません」と提供を拒否されたこともあるという。こうした差別が長期間にわたる終生絶対隔離政策の後押しともなっていた。私はそうした経験をもつ小鹿さんに、世の中のあらゆる差別を解決するための道筋を尋ねた。

 「やはり人を認めるっていうことが必要じゃないかなと思うんですよ。相手を認めれば人を差別するってことはないじゃないですか。認めるためには何らかの勉強をして知識を得る必要がある。知識をしっかり持てば、相手を理解すれば、差別はなくなると思うんですよ」

そして、ハンセン病問題の啓発に一番必要なことは、小鹿さんご自身が、聞いてくれる人の理解を促すように話をすることだと教えてくれた。自治会長という「発信する立場」にあるがゆえの責任だと感じているという。

 「相手が聞きやすいように持っていかなければ。面白くさせるということが必要なのかなって思ったりしていますけど。まあ、なかなか面白おかしくは私自身ではできないけど。内容が内容ですからね。いわゆる深刻な話じゃないですか」

 ばかにして話すことは絶対にできない内容だが、聴講者が涙を流して終わるだけの講演にもしたくないそうだ。つらいことばかり話して涙を流してもらうのではなく、楽しいことがあったならそれも話すべきだと。

 かわいそうな存在と見られるのも違う。この人たちは幸せだったと一方的に捉えられるのも違う。一番ほしいのは、ハンセン病問題に対する根を張った理解だという。

 また、小鹿さんはこうした証言を伝えてくれることを望む。小鹿さんの話を聞いた人たちが社会に訴えることで、ハンセン病がどういう病気かがわかってもらえることにつながるからだ。しかし、そうした啓発を行う人たちには、過度に背負いすぎてほしくないという。

 「学生なんか特にここに来るわけですけど、友達にハンセン病の話をしても誰も面白くないということで乗ってこないことがあると。『伝えられない自分が悪い』と落ち込んでしまうことがあるみたいです。でも、それは違うんじゃないかなと思いますね。やっぱり発信しようという気になることが第一歩であって、そこでどういうかたちになろうと、どっかで残ってくれていればと思うんですよね」

 発信を試みれば、どこかでハンセン病問題の話が残っているかもしれない。そうすれば何らかの変化はある。過度に思い詰めずにこの実相を伝えていってほしいという。やってみようという気にならないと失敗もない。一方で、使命感を持ちすぎてしまうことにも注意を払い啓発を行っていく。各々ができることを続けていくことが大切なのかもしれない。

木々が生い茂る坂道で撮った一枚


東京オリパラに向けて活動する団体からの示唆

 私は昨年、SOPP学生プロジェクト「GO BEYOND」代表の山本華菜子さん(当時、上智大大学院1年)に「共生社会と差別」の観点から取材をしていた。「GO BEYOND」は、2021年に実施予定の東京オリンピック・パラリンピックを契機に、共生社会実現を目指す活動をする団体だ。これまでに、パラスポーツの競技体験イベントや講演会の開催、ボランティアツアーなどを行ってきたという。活動の中で感じられた社会の変化について尋ねたときの山本さんの回答が、小鹿さんの啓発に対する考え方と重なった。

 「私たちの活動の中で、例えばアンケートで『○○を考えるきっかけになった』とか『障害に対する考え方が変わった』とか、もちろんそういう回答もあるんですけど、たぶん社会を変えるって、そんな簡単じゃないと思うんですよ」

 学生であれば発信力も社会的地位にも限界があるだろう。学生だからできることがある一方で、制約があるのもまた事実だ。しかし、次の言葉に核心を見た気がした。

 「私たちがやっていることって、私たちの活動に関わってくれた人たち全員が『共生社会』っていうワードを知っているじゃないですか。それだと思うんですよ。だから、私たちの活動は『共生社会』っていうワードを知って、『それって自分なりの言葉に起こしたら何だろう?』っていうのを考える機会だと思っているんですよ。だから、みんながそれについて考えてくれる団体であるからこそ、『共生社会』っていうワードをなくさないことができる。これから10年先もその時代に生きている人たちが『共生社会』っていう言葉を知っているような社会にしていくことが私たちができることで、今できていること。10年前は誰も『共生社会』なんて言葉知らなかったと思うし」

 もしかしたら、これが学生としての私にできることなのかもしれない。そして、学生以外の方も各々の持ち場でできることを話し合い、試行錯誤していけば良いのだと思う。もちろん、多くのハンセン病問題関連団体が精力的に活動されていることには、心から敬意を表したい。ただ、ハンセン病問題の啓発は、根本的には国の教育に委ねなければならないのが実情だ。その状況の中で何をしていけばいいのかわからず、もどかしい思いをしている方もいることだろう。そう感じる方は過度に背負いすぎずに、問題を「なくさない」ことを心がけていけば良いのではないだろうか。「ハンセン病問題」と誰か一人でも言えば、このワードがなくなることはない。そして、「えっ、何だろう?」というハテナが生まれることにもなる。多くの来場者が訪れるイベントを主催する山本さんの明確なビジョンが、大きなヒントを与えてくれているはずだ。啓発については色々な意見があることだろう。しかし、伝えることなら、「なくさない」ことなら誰にでもできる。少しずつでも、草の根から広げていけるのだと信じている。

駿河納骨堂


小鹿さんの証言が意味するもの

 小鹿さんはこれまでの生活について、「同じ病気の人が横にいるってことは支えだったんじゃないかなと思います」と振り返った。一緒に乗り越えてきた。何かを一緒やれたことは大きかった。高校生活では手の症状の影響でうまくいかなかったこともあったが、「そのときにできた友達は今でも友達として付き合えるっていうのは、大きいこと」だと話す。最近はご友人が入院したり、亡くなったりするなど向き合わなければならない悲しみもあるという。ご自身の年齢的にも「早すぎる」とは言えない状況になってきたと苦しい胸の内を明かした。こうした入所者の健康状態は、医療体制の不備とともに、啓発に携わる我々にも突きつけられることだ。

 今回小鹿さんからは、これまでとは違う観点からハンセン病問題を捉える機会をいただけたように思う。当然のことながら、回復者の半生は異なるわけだし、証言をしてくれる人もいれば、過去の経験を語りたくない人もいる。その思いや証言を一つずつ受け止め、回復者の置かれた境遇を想像できるようにしていきたい。そのためには、小鹿さんが言ったように勉強をして知識を得なければならないのではないだろうか。これからも絶えずハンセン病問題を学んでいく必要性を実感している。

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による世界的な混乱が続いている。残念ながら今回も、感染者や医療従事者などに対する差別が起きてしまった。同じ感染症に対する差別が起きた負の遺産が生かされているのか。我々に問いかけてくる。必要なのは、感情ではなくデータに基づいた責任ある行動ではないだろうか。生み出された社会風潮による感情的な行動が人権侵害を生んだ過去を、今こそ思い出すときだ。

 一方で、そうした差別を非難する文脈で、ハンセン病患者の終生絶対隔離を取り上げる論評も見受けられる。こうした動きがあるのは、多くの方がハンセン病問題を伝え続けてきた成果なのかもしれない。「なくさない」ことがいかに重要なのか。この状況の中で、ハンセン病問題のルポルタージュを書く意義を感じている。

駿河療養所から見える富士山


 駿河の地は富士の高嶺に見守られ、晴れた日には季節を問わず彩り豊かな味わいを楽しめる。混乱が収束したあとにでも、ぜひ多くの方に訪れてほしいものだ。

 療養所内には単純に解決できない問題が様々ある。また、立地が悪く辿り着くのも難しいのは否定できない。しかし、その場で生きる人たちの優しさが、必ずあなたを励ましてくれるはずだ。療養所内を2日間歩いて出会った入所者の方々は、見知らぬ私に必ずと言っていいほど笑顔で会釈をしてくれた。そして、突然訪問した一介の学生に感謝の言葉を何度もかけてくれたのだった。社会からの差別に苦しんだ方も多くいるはずだが、その社会の一員である私への温かい対応の数々に、胸が熱くなった。入所者を含めた回復者、そのご家族の人生が犠牲になってしまったことの意味を忘れないようにしたい。

 壮大な景色と人々のたしかな営みを身に沁みて感じ、駿河療養所との心の「つながり」を持てた気がするあの2日間。晴天の下歩いた敷地内には、常にやわらかな光が降りそそいでいた。この光が、絶望の中を生きていた人たちにも希望を与えてきたのかもしれない。そうしたことを考えつつ療養所を去った私が手にしたのは、外出自粛が続く今こそ持っていたい、優しさと前を向く力だった。



追記

 この度取材に応じてくださった小鹿美佐雄さんに、心から感謝いたします。いただいた証言を自分なりに消化し、発信を続けていきたいと思います。また、SOPP学生プロジェクト「GO BEYOND」代表の山本華菜子さんには、ご自身の活動経験を詳細に話していただきました。東京オリンピック・パラリンピックを通じた活動をされている山本さんから、ハンセン病問題の啓発につながる大きなヒントを得られたと確信しております。

 「動物介在活動ぷらす」代表の伊東郁乃さん、「国立駿河療養所ふれあいセンター」学芸員の杉山富貴子さん、「神山復生病院 復生記念館」学芸員の森下裕子さん、国立駿河療養所福祉室職員の皆様にも大変お世話になりました。お忙しい中、ハンセン病問題の歴史を教えていただいたり、宿泊場所の手配をしていただいたりしたことに深く感謝いたします。その他にもたくさんの方にお世話になりました。お名前を挙げて感謝を述べたいところですが、プライバシーの関係上差し控えさせていただきます。

 一介の学生に対する皆様の温かいご協力により、今回のルポルタージュが完成しました。本当にありがとうございました。

 ※駿河療養所の取材は2020(令和2)年3月18日、19日に行いました。政府や各自治体、国際機関のデータや通知を分析し、駿河療養所とも話し合ったうえで新型コロナウイルス感染症対策を万全にして実施しました。

 ※山本華菜子さんへの取材は、2019(令和元)年12月20日、上智大学構内にて行いました。

 
 
 

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