ルポルタージュ ハンセン病問題~人間の「豊かな心」は、差別では消せない~
2019.9.3脱稿

国立療養所松丘保養園入口
青森市西部の市街地。周りを木々に囲まれたところに、その施設はある。国立療養所松丘保養園。1909年、北部療養所の名称で設立されたあと、国の強制隔離政策の下で、ハンセン病に罹患した方々が入所してきた。
現在は、近隣に住宅が多く立ち並んでおり、地元住民との交流も活発に行われている。また、創立から現在までの間に亡くなった入所者に敬意を表し、1600本の苗木を植える「松丘の森プロジェクト」も進められており、季節ごとに植物の美しさや色とりどりの景色を楽しむことができる。
しかし、その歴史は隔離政策のもとで人間の尊厳を奪ってきた事実と切り離すことができない。無らい県運動などが盛んに行われたことで、これまでに保養園に入所された方は、3000名を超える。
私自身、青森県の出身でありながら、保養園の存在を知ったのは、ハンセン病問題に取り組み始めた2019年1月だった。その存在を知ったときの驚きは今も忘れることができない。なぜなら、生まれてから何度も保養園の近くの道路を通っていたからだ。地元に帰省する際に利用する新青森駅からも、約1キロ、徒歩15分ほどの近さにあるというからなおさらだった。そして同時に、あれほどまでの人権侵害が、自分の生まれ育った地でも起きていたのにもかかわらず、関心を持つことさえなかった自分を恥じた。

入所者自治会事務所
保養園に伺ったところ、松丘保養園入所者自治会副会長の佐藤勝さんが取材に応じてくれた。
「近くにあってもわからない。不思議だよ」
つい最近まで保養園の存在を知らなかった事実を告げると、佐藤さんはこのように話した。
保養園を含めたハンセン病療養所は、入所者の減少と高齢化が進んでいる。証言のできる方が今後も減っていくことが予想されるのは、否定できない事実だ。その事実は、今後ますます、隔離政策の過ちを後世に伝えていくことが難しくなることを意味するのだと思う。しかしながら、国と社会が一体となって当事者を差別してきたこの歴史は、負の遺産として我々の記憶にとどめておくべきなのは言うまでもない。
今回は、佐藤さんの半生を振り返りながら、隔離政策や松丘保養園の実態を取り上げ、我々がそれらの事実から何を学ぶべきなのかを考えてみたい。
佐藤さんは1948年、秋田県に生まれた。私がその半生を伺ったところ、最初に口にしたのは、「しんどいものだった」という言葉だった。
1961年、小学6年生の3学期にハンセン病を発症。次の春には小学校を卒業し、中学校に入学するというタイミングだった。
佐藤さんが発症したという噂は、周囲に知れ渡っていた。佐藤さんの父親もハンセン病だったということもあり、「ああ、あそこの息子もハンセン病なのか」と蔑まれたという。
小学校は卒業させてもらえたが、中学校は就学を拒否された。佐藤さんがハンセン病だと知れ渡った途端に、「昨日まで遊んでいた人とも遊んでもらえなくなった。声さえかけてもらえなくなった」という。また、家の前を通る子どもの中には、口をふさいで歩く者もいた。
当時を振り返って佐藤さんは、「息苦しかった。孤立してしまう。(人が)どこからも来なくなった」と話した。
療養所で生活を送った経験がある父親は、その実態を知っているだけに、佐藤さんをなかなか入所させたがらなかったそうだ。だが、強制隔離の圧力はすさまじいものがあった。
「保健所の人が週に2回も3回も来るんだもの」
保健所の職員は、佐藤さんの家に何度も出向き、療養所に入所するように迫ったという。「映画はあるし、おいしいものも食べられる」と誘い文句を使って。その結果佐藤さんは、「精神的に追い詰められるかたち」で、1963年、15歳になる年に保養園に入所した。
当時、このようにハンセン病患者を療養所に送り込むために、官民一体となった運動が行われていた。戦前から続いた、無らい県運動である。佐藤さんは語る。
「秋田はひどい。どこに行っても行くところなかった」
佐藤さんによると、保養園がある青森県のハンセン病患者の隔離が終わると、「青森は入れてしまったし、次は秋田」との方針で、隔離が行われていったそうだ。

社会交流会館
その無らい県運動の一端が、松丘保養園内の社会交流会館に展示されている資料で紹介されている。
松丘保養園元園長の福西征子さんは、「ハンセン病問題に関する検証会議」で、次のように発言したという。
「昭和16年12月の開戦の布告を挟んで秋田、青森を中心に強制隔離、所謂『狩り込み』が強行され、2年間で約300名余の人々が保養園に収容されました。この時代は極端な収容者の増加のため、所内生活は誠に厳しいものがありました。当時、飢えをしのぐために所内に生えている食べられる草は何でも、若草のうちに食べてしまったため『保養園には草が生えない』という『言い伝え』ができたと言われています」
社会の中で、一人の人間として当たり前に送ることができるはずの生活が奪われたうえに、過剰収容により、食生活もままならない。何重にもわたって、入所者が受けた被害に驚かされる。
また、入所していた女性の夫の語りも紹介されていた。
「妻が小学校5年生ぐらいのときに学校の身体検査があって病気だって言われて、手紙を親に見せなさいって言われたけど親に見せかねて、明くる日また知らんふりして学校行ったら、先生に『あんた学校来たらいけないんだよ。もうこのまますぐ帰りなさい』って言われて、泣きながら、帰って行ったんです。
それから2,3年ぐらいは家の離れの所を隠れ家みたいにしていたんですね。太陽の光といえば、戸の節穴から、筋になって入ってくる光だけ、いつも猫を膝に乗せて、下校の子供が外をガヤガヤ言いながら通るのをいつも節穴からのぞいては泣いていたそうですよ。
薬も飲まないんだから、少しずつ病気も進んでいったら、ある日母親がぽつんと言ったそうです。『消毒されるようなことがあったら、他の兄弟達も学校に行くことができなくなるから、もうお前、お母さんと一緒に海に入って死ぬか?』って。けれどもとても恐ろしくて嫌だと言ったんです。それでもあんなに親が困ってるんなら、兄弟にも迷惑かけないような所へたった一人行ってそこで死にたいと思って、ここへ来るって言ったんです」
自分がハンセン病だということが知られると、自分はもちろん、家が消毒されるなどして家族の生活まで失うことになる。だから、自分の存在を隠し通さねばならないという息苦しさを常に抱えて生きていくことになる。無らい県運動は、官民一体となって、ハンセン病問題の当事者の存在を否定しようとした、歴史の悪しき一断面である。これらの意味を考えたとき、佐藤さんの言葉の意味が、より深くおわかり頂けると思う。
今回の取材で、佐藤さんが最も語気を強めて話したのが、「青春時代」についてだ。
佐藤さんは、入所後、保養園内の青森市立新城中学校二葉分校に在籍した。しかし、病気が重くなり、1学期しか通学できなかったという。その後は、「ベッドで2,3年」の生活を送らざるを得なかった。そのため、高校にも行けなかったという。
同年代の人たちは、長島愛生園(岡山県瀬戸内市)内の邑久高等学校新良田教室に進学したり、退院したりと、関わる機会がなかった。「入所施設の生活ばっかり。青春時代なんてない」と語る佐藤さんの表情は、とても悲しげだった。
私も病気を理由に、長期休学を経験している。しかし私の場合は、大学の同期から度々励ましの連絡を受け取ることができた。それらは、私にとって大きな支えであり、前に進む原動力ともなっていた。
隔離され、人間の尊厳を奪われたうえに、周りに同年代という支えがない佐藤さんの入所生活はいかほどに苦しかったのか、想像するだけでも胸が痛くなる。隔離政策がこのように佐藤さんを孤立させたという事実が、その冷酷さを物語っている。
佐藤さんの母親が入院していたときの話もしてくれた。佐藤さんは、佐藤さんの妹夫婦とは良好な関係を築き、一緒に母親の見舞いに連れて行ってもらえたという。しかし、その一方で、大きな葛藤を感じた。
「声かけられないんだね」
見舞いに行くことができても、自分がハンセン病に罹患した過去があるからこそ、差別を恐れて母親に声掛けができないつらさ。ハンセン病に対する誤った理解や差別が根強い時代が長く続き、より大きな差別を恐れて人前で家族と最低限の会話さえも満足にできないまでに、社会が佐藤さんを追い込んでいた。
見舞いでは、ただ見つめるだけだったという。
「『おふくろ』と言えなかった」。そして、佐藤勝ではない、自分の本名で母親に話しかけたかった。
家族と休日どこかの飲食店に出かけたり、家族旅行に行ったり、出かけた先で他愛もない会話を楽しんだりできることが、どんなに幸せなことなのだろうか。家族団らんの時間を過ごせることが、これほどまでに尊いのだということ。その意味を深く考えさせられた。
入所生活の中で、佐藤さんを支えたのは、「一人遊び」だったという。
同年代の方が周りにいなかったことなどから、「キャッチボールできるわけでない」。だから、自転車で外に遊びに行ったり、季節ごとの山菜を採りに行ったりしたという。
「一番楽しかった」と語るのが、保養園から弘前公園(弘前市)まで自転車で行ったことだという。「握り飯」を持ち、今のように舗装されているわけでもない道路を何時間もかけて往復した。現在でも自動車で片道約1時間かかるこのルートを、自転車で往復したということに非常に驚いた。
このような「一人遊び」をしていると、入所生活からは解放される。しかし、解放されてはいても、「病気のこと忘れられない」「やっぱりさみしい」とも話した。
心から「楽しい」と言えたり、心から笑えたりするということ。佐藤さんは、そういった瞬間を手に入れることさえ難しかったのだと思う。
隔離政策により、多くの悲しみや苦しみを感じてきた佐藤さん。そんな中最近は、社会の変化も感じられるようになったという。
「大きく変わったことはね、(5年ほど前に)おふくろが亡くなったとき、(地元の)村の女の人たちが7,8人集まってくれた。胸が熱くなった」
ハンセン病回復者、その家族に対する差別は、依然として根強いのが実情だ。しかし、2001年の熊本地裁判決以降、ハンセン病問題に対する理解は、徐々にではあるが広がってきているのかもしれない。佐藤さんは話す。
「(保養園の)近くに行くとき、(後遺症により障害を負った手を)ズボンのポッケに隠してきたけど、今は別に隠さなくてよい。時代は確実に変わってきている。(今は)知ってもらわないと理解してもらえないという気持ちになっている」
当事者の一人である佐藤さんが、このように語ってくれたことは大きな希望であり、今後も啓発をうまく進め、議論を深めることの重要さを感じる。2019年6月のハンセン病家族訴訟の熊本地裁判決を含めて、ハンセン病問題についての差別や偏見を考えさせられる機会は、たしかに増えたように感じる。一人一人がこの問題に対しての意見を持ち、差別や偏見に終止符を打ちたい。

共生の遊歩道
取材の終盤、佐藤さんに「差別」について伺った。
ハンセン病問題は、国の誤った隔離政策により、官民一体となって当事者への「差別」を行った許されざる負の遺産だ。そして残念ながら、ハンセン病問題以外にも、日本国内には依然として様々な差別がある。差別を恐れて、声を上げられない人びとがどれだけいるのか、見当もつかないほどに、今この瞬間も多くの方が苦しんでいるのだと思う。
実は私も、小学生の時分から差別を受けてきた。そのうえ、先述の病気にもなったことで、さらに自分の過去を語りにくい状況になってしまった。未だ日本では表面化していない差別問題なのだが、本文の趣旨から遠ざかることになるので、その差別がどのようなものだったのかについて、詳細は控えさせていただく。だが、私もその「声を上げられない人びと」の一人であるのは確かなのだ。
「痛いほどよくわかる。勇気なかなか湧かないよな」
私がこれまでの経緯を簡単に話したところ、佐藤さんはこのように共感してくださった。
そのうえで、「でも、隠すことのほうがつらい。必ず知られるし、どこからか漏れるもの。一生隠しきれないものだ」と語り、さらに以下のように続けた。
「同年代で、ちゃんと理解してくれる友人いるものだって。一病、二病はみんな抱えているから。だから、言ってもいいという人を見つけてみて」
私が日々感じるのは、佐藤さんがおっしゃるように、隠し通すことやごまかし通すことのつらさ、難しさだ。未だ表面化していない問題だからこそ、私が声を上げる必要性も感じている。それがわかっていても、勇気はなかなか湧いてこない。ハンセン病回復者の方々は、この窮屈な日常と長く闘ってきたのだと思う。
そんな悩みを持つ私に佐藤さんは、心温まるメッセージをくださった。
「若い人のそういう話聞くとつらいね。(隔離政策により差別を受けたという)経験あるからこそね。でも、悩みがあるからこそ乗り越えてみせるという気持ちになる。暗いこと、あまり考えるな」
たしかに、今抱えている悩みがあるから、日本の差別問題に取り組むきっかけにもなったし、このルポルタージュも執筆している。そういう意味では、悩みがなければ、佐藤さんと出会うこともなかったのかもしれない。まさに、悩みがあるからこそ、自分は乗り越えてみせようという気持ちになっているし、一人一人の命と人生に向き合おうと思えている。カミングアウトが難しくても、暗いことばかりが人生ではない。佐藤さんの優しさあふれる言葉と表情は、自分らしく希望を持って生きることを私に思い出させてくれたのだった。
隔離政策で、ハンセン病問題の当事者は、社会から差別され隔絶された。社会は、その方々の人間の尊厳を奪い、今もなお、それが解消されたとは到底言える状況ではない。
ここで、今回紹介した佐藤さんの人柄を思い出していただきたい。差別に遭い、約60年もの間、保養園に入所せざるを得なくなっても、佐藤さんの優しさあふれる「豊かな心」は全く消えていない。社会が人と人とのつながりを奪っても、屈辱感を覚えるような言動やいじめを繰り返しても、人間の「豊かな心」は消せないのだと思う。
差別はあってはいけないし、いかなる理由があっても許されるものではない。しかし、差別に遭いながらも「豊かな心」を失わず、私という若輩に希望を失わずにいることの尊さを教えてくれる。そんな佐藤さんに、心から敬意を表したい。
回復者の意見には様々なものがあるはずであるし、我々はその一つ一つを最大限尊重する必要がある。佐藤さんと異なる気持ちを持って、余生を過ごしている方もいることだろう。
そのうえで、あえて申し上げたい。佐藤さんという、こんなにも優しさと愛を届けてくださる素晴らしい方に対して、国や社会が誤った政策に基づいて、非人間的な扱いを正当化し、何十年間にもわたって差別を続けてきたことを、我々はもっと恥じるべきではないか。
「命の意味、人間の尊厳」
抽象的に議論するのではなく、ひとりひとりの人生にこそ、その意味を考える礎がある。
先述のように、今なおハンセン病問題における差別は大きい。そして、他の差別問題についても同じことが言える。そこには各問題の当事者がいる。果たして我々は、「豊かな心」を持った多くの方々を苦しめていることに気づいているだろうか。
人間は、誰しも「豊かな心」を持っているのだと思う。そして「豊かな心」はその連鎖を生む。つらいことがあったとき、苦しいことがあったとき、誰かの存在や表情、言葉などから救われることがあるのは、誰もが皆「豊かな心」の持ち主だからなのかもしれない。人は誰かから救われることもあるし、逆に助けることだってできる。自分と似た体験をした人ならなおさら、それ以外でも自分が知らぬ間に誰かの生きる意味になっていることがある。
だからこそ、誤った認識に基づいて差別や偏見を助長し、社会からマイノリティーを排除してしまう社会はあまりにも不幸なのではないかと思う。そして今、人間同士が寛容さを失い、相手の主張や意思表示を受け付けなくなっている風潮が社会にはびこっていないか、よく考えてみてほしい。
日本がより生きやすくなるために、寛容さを手に入れ、自分も他人もありのままに受け入れることができる。そんな社会になれば、きっと誰もが希望を持ち、輝けるようになる。そのために、身近なところからできることはあるはずだ。
悩みや苦しみを抱えていても、それを人に言うことができないという経験は、誰しもあるのではないだろうか。だから、「何かあったら頼ってね」という一言を、身近な人と心から伝え合えば心が軽くなり、一人で抱え込まなくても済むことは多くなるのだと思う。その積み重ねが、「豊かな心」を連鎖させ、希望を持って生きられる社会を形作っていくことにつながるのだと信じている。

保養園の美しい景色
佐藤さんから受け取った多くの言葉は、青森の地で私が手にした最高のプレゼントだ。その恩をたくさんの人に届け、「豊かな心」を連鎖させていきたい。
そして、改めて確認できた。今まで自分自身も差別に苦しんだが、佐藤さんのように共感し、励まし、受け入れてくださる方もいるのだということを。
「一人じゃない。わかってくれる人は必ずいる。何かで通じ合える人は必ずいる」
そんなことを感じられた、24歳の夏だった。
<参考文献>
国立療養所松丘保養園社会交流会館資料
※佐藤勝さんへの取材は、2019年8月16日に行いました。
当日は突然お伺いしたにもかかわらず、その後の予定を遅らせてまで佐藤さんは取材に応じてくださいました。「若い学生がわざわざ来てくれるんだもの」と優しくおっしゃってくれた佐藤さんには感謝の念が尽きません。本当にありがとうございました。
※写真はいずれも2019年8月31日撮影。撮影者は、私の両親です。
ハンセン病問題の基礎知識も合わせてご覧ください。
ハンセン病問題の基礎知識①「ハンセン病とは」「ハンセン病問題とは」




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