ルポルタージュ ハンセン病問題4~「使命」がつくりだす「希望の光」~
2020.2.28脱稿

佐藤勝さん
穏やかな表情と語り口で、力強く自らの半生を語る。その言葉には夏に会ったときと変わらず、その人の優しさが溢れていた。国立療養所松丘保養園内の入所者自治会事務所。佐藤勝さん(72)が、再取材に応じてくれた。
現在は、自治会の副会長として多忙な日々を送る。昨年11月の慰霊祭、1月の110周年式典などの行事に加え、講演活動や会合など毎日のようにスケジュールが埋まっているという。他の役員が体調を崩しているため、実質一人で自治会活動の重責を担っている状況だ。そんな厳しい状況にも「代表として選挙で選ばれているから、今はやらなければならない」と自らを奮い立たせる。
保養園入所者の平均年齢は86歳を超え、入所者の減少が続いている中で、佐藤さんは園内の医療体制の構築に邁進している。
「保養園の医療体制は、大丈夫じゃないですよ。やっぱり魅力がないんだべね(=魅力がないのだろうね)。若い医師は色んな研究をしたいだろうし。わからないわけではないけれど、ここには来ないんだな。待遇面からもそうだろうし。だからといって、この状況を黙認するわけにはいかないからね。自分はいいと思っても、弱い人、年を取った人は泣くしかないじゃない。その人たちは、一番苦労してきた人たちなんだもの。食い止めていかなきゃ、俺たちが」
らい予防法の隔離政策による被害を受けながらも、「人に頼られる」という生きがいをもち、副会長としての責務を果たし続ける佐藤さんは、保養園になくてはならない存在だ。
例年よりも雪が少ない暖冬の今年、ほどよく雪化粧した2月の保養園で、佐藤さんという「人」に改めて迫ってみた。そこには、想像を絶するほどの過去があっても「希望」を見出していく道筋が描かれていた。
少年時代から抱える複雑な思い
講演活動をする中で、佐藤さんは複雑な思いを抱えている。
「俺小学校しか行ってないからな。今講演活動していると、義務教育として中学校までは学んでおけば、もうちょっと苦労せずに済んだのかなと思うな」「新聞とか見たりして、漢字にしても、日本の文字って色んな読み方あるじゃない。そこもやっぱり苦労したね」
昨夏の佐藤さんへの取材をもとに書いた「ルポルタージュ ハンセン病問題~人間の『豊かな心』は、差別では消せない~」にもあるとおり、佐藤さんはハンセン病に罹患したことを理由に中学校から就学を拒否された。親を介して教師は「学校に来るな」と伝えてきたそうだ。佐藤さんがハンセン病に罹患したとの噂は、すぐに周囲に知れ渡り差別的な扱いを受けた。小学校を卒業してからは、2年もの間ほぼ外出できずに、家に隠れて生活せざるを得なかったという。「ガキ大将」のように遊んでいた少年時代は、一瞬にして暗転したのだった。
「家にテレビあるわけでないし、ただ孤立無援だよな。外に出るっていったら、暗くなってから周りに人いなくなってから出て、外の空気吸うくらいかな。堰のほうに行って遊ぶとかってできないじゃない。暗くなってるもの。2年間ですよ」
その後、保健所の職員からの執拗な訪問に苦しみ、「精神的に追い詰められて」保養園に入所。2年間のブランクを経て、保養園内の青森市立新城中学校双葉分校に在籍したが、高熱が続くなどしたため通学が不可能になってしまった。
「そのあとは病棟のベッドの上よ。2年か3年。毎日のように高熱になって、飯も食えなくなって、体重も38キロまで落ちちゃって。入所者の先輩が『飯だけは何とかして食べないとだめだ』と言ってくれて、食材を漬物にして俺に押し込んでくれた。それが今思えば助かった理由かな」
友達は皆、長島愛生園内の邑久高等学校新良田教室(岡山県瀬戸内市)に進学したため、佐藤さんは同年代がいない生活を強いられることになる。
「うらやましがっただゃ(=うらやましかったよ)。ただ病棟のベッドの上から『新良田教室で頑張って来て』ってしか言えなかったし、俺はベッドの上で頑張るしかないと」
前回の取材でも「青春時代なんてない」と話していた佐藤さん。当時のことを整理するのは、未だに難しいようだ。
60年近く経った今も忘れられない仕打ち
そして、60年近く経った今でも忘れられないことがある。同じくハンセン病に罹患した父親に対して、社会がした仕打ちだ。
前出のルポにも書いたが、父親は自分のつらい入所経験があったため、佐藤さんをなかなか保養園に入所させたがらなかったそうだ。しかし、社会からの圧力を受け精神的に追い詰められたことで、父親も佐藤さんと一緒に入所する覚悟を決めた。
その数日後、予想外なことが起きる。父親が突然亡くなったのだった。
「親父と来るんだったら、さびしい思いしなくて済むのかなって。親父にかわいがられたほうだから」
佐藤さんは、父親の葬儀を終わらせてから入所することに決め、一家は葬式までの段取りをつけていた。しかし、父親は火葬してもらえなかった。ハンセン病であることが理由だった。
「母親は何度も頭下げだんでねがな(=何度も頭を下げたと思う)。それでも、とうとう火葬してもらえないで、親父を穴掘って埋めるしかなかった。初めてだね、火葬してもらえなかったの。それだけは、60年近く経っても頭からこびりついて離れない。らい予防法という法律がそうさせた。俺たちが悪くないんだ。そういう法律があると突きつけられると『しゃあね(=しかたない)』と思うしかない」
佐藤さんは今、講演で本名を原則公表しているという。それによる差別を感じることもないそうだ。ただ、出身地である秋田県での講演の際には「佐藤勝ではない」ということだけしか言えず、本名は明かせない。地元での過酷な体験は、覚悟を決めて命懸けで活動に取り組む佐藤さんをも未だに躊躇させてしまう部分があるのだろう。
「一人遊び」と「豊かな」感覚
「若い頃は一人だった」と振り返る佐藤さん。前回の取材で、入所生活の支えになっていたと話した「一人遊び」について詳しく教えてくれた。
「遊ぶ相手いないから、自転車でフェリー埠頭に行ったりして、ただぼんやり一日を過ごしたりした。そこで海を見ていると、なんか船に乗っているような錯覚に陥るんだね。じーっと海を見ていると。そして、ふと周りを見ると、ここは大地なんだなと気づく。そういうことがあったな海岸に行くとな」
この「豊かな」感覚が佐藤さんの魅力だ。海岸に押し寄せる波やしぶきを見ていると、あたかも本当に船に乗っているかのように想像することができる。一人さびしい思いをしても、こうして生活に彩りを加えてきたのだろう。
フェリー埠頭に行った後「自転車で出歩くのも面白い」と感じ、「自分で行けるところまで行ってみよう」と思ったという。
「そういう経緯で弘前公園まで自転車で行ったのよ。舗装も何もされていない道路をね。昼飯作ってもらって。腰痛くなって、パンクしたりしてな。でも何となくさ、帰ってきたあと充実した一日でな。俺24歳か25歳のことだべな(=24歳か25歳のことだろうな)。若いからできたことだな」
その後、友達に誘われて始めた山登りでは、人生を考えさせられたそうだ。
「山登りしてたら、これまたすごいんだな、八甲田山。その登山口から上まで行く途中で、人間の生きていくのと同じで『もう諦めたくなる』って感じることがあるわけだ。あまりにもきつくて。ところがそれを乗り越えたら、何とも言えない醍醐味がある。下界でのいろんな出来事に、小さいことでどうのこうの言っている場合でないってね。小さな花にも出会えるし、知らない人同士で声を掛け合って『頑張れよ』って言い合える。不思議なものだよ。山で出会う人はみんな『こんにちは』って言ってくれる。それがまた何とも言えない。青森市内にいてもそういうことはないからな」
佐藤さんは日常の中に散りばめられている、小さな幸せを確実に手にすることができる方なのだと思う。不合理な隔離政策という許されざる国家犯罪に遭っても、その「豊かな心」で自分の人生を育んできた。人の痛みを知っている佐藤さんが伝えるからこそ重みを持つ思い出の数々だった。

入所者自治会事務所
自治会活動における努力
今佐藤さんは、心臓に疾患を抱えながらも副会長としての職務を遂行している。ご自身も「いつどうなるかわからない」と語る中で、忙しい毎日を送っている。
2002年に当時の役員から依頼され自治会に加入。当初は渋々自治会に来たというが、今では欠かすことのできない存在だ。講演会の原稿の執筆もパソコンを使って自らの手で行っている。
自治会に加入してからのことを振り返ってもらったところ、そのパソコンの操作を覚えるまでの苦労について話してくれた。障害を負ったため、利き手である右手で文字を書くことができなくなり、左手での執筆も、文字を書こうとすると緊張感から手が震える「書痙(しょけい)」が原因で不可能となった。そのため、自治会に加入してから職員にパソコンの操作を教えられ習得した。
「キーボードはあいうえお順でないからな。ABC順でないからな。大変だったね。やっているうちになんとかな」
この努力がなければ「今の俺はいなかった」と誇らしげに語ってくれた。
生き抜いてこられた理由
昨夏お会いしたあとからずっと、佐藤さんに聞いてみたいことがあった。なぜ佐藤さんは生き抜いてこられたのか。
父親はハンセン病ということで差別され、火葬さえしてもらえなかった。母親と妹も家族がハンセン病になったという理由で差別と闘うことを強いられた。ご自身は村中から差別を受け、青春時代を一人で過ごし、母親の見舞いに行っても声を掛けられなかった。これほどのことが自分の身に襲いかかってきたとき、どれだけの人が押し潰されずに生き抜くことができるだろうか。これまで生き抜いてこられた理由について、佐藤さんは次のように話す。
「せっかく何かの使命をもって生まれてきたもの、この世に。自ら絶とうなんて思わないや。命をな。今日のこの日のために俺は生きてきたんだと思ったの。みんなの役に立ってる。だから、無駄な生き方はしたくなかったんだって。勉強はできなかったけれどもね。だから、今俺倒れていられないって思ってね。風邪なんか引いていられないって。みんな心配するけども、おめだぢ(=みなさん)俺が弱そうに見えるかもしれないけど、俺案外丈夫だよって喋ってるんだ」
みんなの役に立つことが佐藤さんの生きがいなのだという。誰かから「頼むな」と言われれば、「そうだな」と思える。ご高齢の入所者から「おめしかいねがらほら、頼むよ(=あなたしかいないから、頼むよ)」「体に気をつけて頑張ってけれ(=体に気をつけてがんばってちょうだい)」と言われれば「へなへなってられね(=弱々しくいられない)」と思える。顔をほころばせながら、楽しげに話してくれた。人から頼られることが本当に嬉しい方なのだろう。
差別によって混乱した人生にも「使命」を持ち、生きがいを見つけて生き抜いてきた佐藤さん。この「豊かな心」は、絶対に消せない。
「その日の天使」になれれば...
ハンセン病に対する差別は未だに存在する。そして残念ながら、報道によって可視化されているだけでも数えきれないほどの差別が社会を襲っている。病気、障害、性自認・性的指向、国籍、出身地・・・差別という刃の矛先は、その対象となった方々を苦しめ、ときには命まで奪ってきた。これら以外にも未だ表面化していない問題で、人知れず苦しみ悶えている人たちがいる。こうした差別問題について、佐藤さんはどう思っているのか。
「人間はね、誰しも否定する心は持っているんだな。ただ、それを如実に表してあいつら普通の人と違うからって否定するのは絶対に許されないし、あってはならないことだ。ましてや命まで奪うなんてとんでもない話。どんな人間でも否定するっていうことは、絶対に良くないことだから。でも、それを食い止めるのはなかなか難しいと思うな。もちろん、それに対して俺たちはむきになって怒りたいけども、難しいと思うな。差別は世の中から消えないと思うな、正直言って。あってはならないことだけれども」
ご自身の経験や今まで目にしてきた様々な問題を踏まえて、佐藤さんは語ってくれたのだと思う。そして、佐藤さんが言ったことは現実として受け入れなければならないことでもある。「差別は消えない」。あってはならないものだが、差別が蔓延する現実に絶望している方も多いのではないだろうか。自分の属性が人と違うことなどによって、自分らしく生きることを否定される。社会が自分の属性を想定していないかのような発言をすることで、何年にもわたって傷つき続けてきた方、今も傷ついている方の苦しみは、想像するに余りある。ハンセン病回復者とそのご家族の方々は、まさにこの恐怖と向き合い続けているのだろう。
「色が違うから、言葉が違うから、色んな障害持ってるから生きる資格がないとかっていうけど、みんなそれぞれ使命があるじゃない。それを否定することは、良くないね。その差別した人自身が今度嫌われるじゃない。『あの人のそばに行っちゃいけないよ』って。それだって一つの差別じゃない。そうじゃなくて、お互いに手を差し伸べて、助けると。ちょっとした言葉掛けでその人がほっとしたり、橋の上から飛び込もうとした人が助かる場合もあるし、俺はそう思うな」
佐藤さんは、ご自身の半生を振り返り「自分のことも去ることながら、相手のことをちょっと考える」ことの大切さを強調する。
精神的に追い詰められて入所した保養園。一週間に何度も保健所の職員が家を訪問した。その様子を見られていたことから、村の人たちからは「早く療養所に行け」と思われていたのではないかと話す。その目に見えない圧力を子どもながらに感じていた。
一方で佐藤さんは、立場が逆になれば自分も村の人たちと同じ気持ちになっていたかもしないとも話す。差別は恐ろしいもので、無らい県運動などによる社会の圧力によって、ハンセン病患者の情報は、瞬く間に村の隅々にまで広がった。電話など何もない時代にもかかわらず、その速さは考えられないほど速かったという。その時代に患者を密告する立場にあれば、そのような気持ちになる可能性は誰にでもあるのかもしれない。
だからこそ、相手を想像することを佐藤さんは強調する。自分の考えに縛られず、相手の境遇もしっかりと想像するべきなのだと。
「『自分がこう思うから、こうやれ』と言うんじゃなくて、『果たしてこの人はどういう境遇にあるのかな』って考える。それを知ったうえで、お互いに手を差し伸べるというかんじで生きていけばいいんじゃないかな。どんな人に対してもな」
相手のことを少し想像するだけで、人は優しくなれるのだと思う。ややこわばった表情をしている人が、今まさに自殺を考えているのかもしれない。いつも厳しい言葉ばかり投げかける人も、今まで満たされない思いを抱えてきたのかもしれない。見た限りでは何の苦労もなさそうな人が、差別を恐れて自分の過去を語りたがらないことがあるかもしれない。なかなかうまくコミュニケーションをとれない人が、実は許しがたい暴力を受けているのかもしれない・・・
人を傷つけるのが人だとしても、人を救えるのも人なのだ。相手のことを少し想像できれば、佐藤さんが言うように、誰かを救えるのだと思う。
ここで、故中島らもさんのエッセイを紹介したい。「その日の天使」という作品だ。
「一人の人間の一日には、必ず一人、『その日の天使』がついている。その日の天使は、日によって様々の容姿をもって現れる。(中略)こんな事がないだろうか。暗い気持ちになって、冗談でも“今自殺したら”などと考えている時に、とんでもない友人から電話がかかってくる。あるいは、ふと開いた画集かなにかの一葉によって救われるような事が。それは、その日の天使なのである」
我々は誰もが「その日の天使」になれる。そして、今までの人生も「その日の天使」に幾度となく救われてきたのかもしれない。残念ながら、差別は消えないという現実が目の前にはある。でも、自分が「その日の天使」となって差別を受けている人たちを救うことはできる。「ちょっとした言葉掛け」でいいのだ。身近にいるどんな人に対しても、「この人と今日会えて嬉しかったな」と思ってもらえるような言葉をかけてあげられればいい。差別にはこうして立ち向かうべきではないだろうか。社会に変わることを求めるよりも、自分がまず「その日の天使」でありたいと思う。ささやかでも確実な「希望」を届けるために。

共生の遊歩道
妹夫婦がいるから「俺は頑張れる」
佐藤さんには「幸せだ」と感じることがある。妹夫婦とのご関係だ。
妹は佐藤さんが「学校に来るな」と言われた何日か後、泣きながら家に帰ってきたことがあった。妹もまた教師から「学校に来るな」と言われたそうだ。母親がそれを聞いて学校と交渉し、その後は普通に通学できたというが「心に受けた痛手は大きかっただろう」と佐藤さんは話す。年頃のときは、しばらく口を利かなかったこともあったそうだ。それについて佐藤さんは「年頃のときって、これはしかたないんだよ。この病気でなくてもな」と振り返る。
「それでも、この病気を理解して妹と結婚した人が今俺のところにしょっちゅう来てくれるんだよ。子どもも連れて来てくれたし。ここに来るんだ。1年に2回くらい泊まっていくんだ。俺その点恵まれてるんだね。普通大概の人は、家には帰れない人の方が多いからね。だって死んでも家に行けないもの。来てくれるからよ。幸せだよ俺。んだはんで俺、頑張るにいんでねの(=だから俺、頑張れるんじゃないかな)」
前提として、佐藤さんとそのご家族に対する差別は何があっても許すことはできない。本来であれば、ハンセン病であるかどうかにかかわらず、誰もが自由に結婚できるはずだ。しかし、社会全体にハンセン病に対する差別が蔓延していた時代にあっても、妹夫婦は結婚を決めた。差別は消えないとしても、佐藤さんと妹夫婦とのご関係は、闇の中に一筋の「希望の光」を差すものと言えるだろう。昨年8月にも一緒にねぶた祭りを観覧したそうだ。絶望する必要はないのではないだろうか。「その日の天使」はいついかなる時代にも、確実に存在するのだから。

松丘保養園納骨堂
佐藤さんは取材の終わりにこう話した。
「あなた方みたいな若い人が、今日話したようなことを世間の多くの人に訴えてもらえれば、俺たちの望むところだね。俺たちではたかが知れてるから、若い人たちに手伝ってもらわなきゃ。差別をなくしていってもらわなきゃ。俺たちは若い人が協力してくれることが嬉しいよ。よろしくね。俺は皆さんを頼りにしてるから」
夏に初めてお会いしたとき佐藤さんは、差別に苦しむ私に穏やかな表情で多くのメッセージをくれた。それがどれだけ支えになっているか。私にとって佐藤さんは「その日の天使」だった。少しだけ自分の話をすれば、そのあと信頼できる仲間は増え、ハンセン病問題と同時に私が抱えた性的な問題についても啓発を行うことができている。佐藤さんがくれた「暗いこと、あまり考えるな」との言葉がいつも私を勇気づけてくれるのだ。佐藤さんは私の憧れの存在だ。その方から頼りにしてもらえるというこの喜びは、何ものにも代えがたい。佐藤さんが言うからこそ、重みを持つ言葉がある。佐藤さんがいるからこそ、救える命がある。佐藤さんの半生が導いてくれるのは、「希望」への道筋なのだろう。
別れ際、握った佐藤さんの手は温かかった。人に愛を与え、愛で救い、希望を届けられる方、佐藤勝さん。今後もその「使命」がつくり出す「希望の光」で保養園を照らし続けるはずだ。その手の温かさが、私にそれを確信させてくれた。
追記
大変お忙しい中、一介の学生のためにお時間をとってくれた佐藤勝さんには感謝の念が尽きません。本当にありがとうございました。
実は今回再会して最初にかけてくれた言葉が「電話で連絡もらったとき、声のトーンがよくなったと思った」というものでした。私のことを覚えてくれただけでも嬉しかったのに、そこまで気を配ってくださっていたということに心が震えました。本当に佐藤さんと出会えてよかったです。また、最後にも「楽しみにしてあったんだ(=楽しみにしていたんだよ)、あんたと会うの。元気な声も電話で聞けたしね。よかったね。これからもあんた、頼むよ」とおっしゃってくれました。
今は取材をし、ルポを書き、講演会に足を運び、研修会に参加し、勉強会を仲間と開催しています。特に仲間と行っている勉強会に関しては、佐藤さんがとても喜んでくださいました。
ハンセン病問題について、私のやり方が本当に啓発になっているのか、自問自答する日々です。でも、こうして憧れの佐藤さんが喜んでくださっている以上、これからも今までの方法を土台にして、何ができるかを考え抜いていきたいと思います。
今回の取材には、私が最も信頼する母にも同席してもらいました。涙を流しながら佐藤さんのお話を聞いていました。取材後一緒に食事をした母が、佐藤さんのお話について笑顔で語ってくれたのを覚えています。差別を受けたことが原因とはいえ、長い間自暴自棄になり、母には本当に迷惑をかけました。ただ、少しだけ親孝行できたかもしれません。それもまた、佐藤さんの力に他ならないでしょう。
同じく差別によって痛みを覚えた人間として、佐藤さんのように一人でも多くの人の人生を救える存在になりたいです。「今日大嶋と会ってよかったな」と思ってもらえる人を一人でも増やせるように、邁進していきます。それが私の「使命」であるはずです。
繰り返しになりますが、佐藤さん、この度は本当にありがとうございました。今後のご活躍を心から祈念いたしております。
※今回のルポでは方言をそのまま使用しました。共通語訳については、(=)の部分を参照してください。
<参考文献>
中島らも「その日の天使」(日本図書センター、2010年)p147~149




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