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ルポルタージュ ハンセン病問題3~「幸せ」を手にするための「勇気あるチャレンジ」~

2020年6月3日
読了時間: 21分

2019.11.20脱稿

 

 皆さんは、どんなときに「幸せ」を感じられるだろうか?そして、皆さんにとっての「幸せ」とは何だろうか?

 手をつなぎ笑顔で歩く親子、会話をしながらにこやかな表情で歩くカップル、人気の飲食店の前で今か今かと開店時間を待つ人々・・・街を歩いていると、「幸せ」を感じられる光景に胸を打たれることがある。

 生きている以上、誰もが「幸せ」に生きる権利を持っている。そして、自分の「幸せ」を追い求める権利を持っている。しかし「差別」は、一瞬にしてその「幸せ」を奪ってしまう。

 「社会的差別は、何としてもやっぱり防がないといけないと思いますね。らい病だっていうことで、もうこれは汚いものという烙印がポンと押されちゃっているわけだ。烙印を押してしまうような社会的差別っていうのはね、これは許しちゃいかんと、私は思いますね。だから、二度とハンセン病の差別が更新しないようにというか、生きてる限りはね、そういった活動は続けたいと思いますね」

 ハンセン病回復者で、現在は社会で生活を送る川邊嘉光(かわなべよしみつ)さんはこう話してくれた。

 川邊さんはこれまで、医学部の学生、宗教関係者などを対象とした講演活動に取り組んできた。人生を通して差別と向き合い、その意味を感じ続けてきた川邊さんが発する、やわらかくも重みのある言葉の数々は、我々にハンセン病問題の難しさを突きつけてくる。

 らい予防法によって、歯車が狂わざるをえなかった川邊さんの人生。そこから見えてくるものは、強制隔離政策の過ちと「差別」の意味だ。我々はその差別によって、多くの人生と「幸せ」を奪ってきたのかもしれない。

 では、今なお「差別」と闘う方々が「幸せ」を手にするためには何が必要なのか。今回は、川邊さんの証言を様々な角度から取り上げることで、その答えを考えていきたい。

ハンセン病の発症と社会から受けた差別

 川邊さんは1942年、鹿児島県に生まれた。ハンセン病を発症したのは、小学5年のときだった。もっこを持てなくなるなど、左手の握力が弱まる初期症状が現れたという。加えて、左手の小指と薬指をしっかり伸ばせなくなったそうだ。

 実は、川邊さんの父親もハンセン病を発症していた。父親が言うには、川邊さんが発症したときの様子が自分と似ていたという。そのため周りからは「ああ、やっぱり親父の病気かららい病がうつったんだ」と言われた。

 父親は発症後、職場で「らい病」を疑われ国立療養所星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市)を受診。ハンセン病との診断を受けたが、同行していた川邊さんの父方の祖父が、収容を恐れて連れ帰ったという。

 「それからまた2年かそこら逃げ回ってたんです。それが親父が昭和25(1950)年に諦めて敬愛園に収容されていった。その後私は昭和28(1953)年の4月に収容されていったんですけどね」

 父親が収容される前の社会的圧力はひどいものだった。当時行われていた、第2次無らい県運動によって保健所の職員から、何度も「入院しろ」と迫られ、民生委員にも「根比べはこのくらいにしろ」と脅されたそうだ。その結果、父親は社会で暮らすことを諦めて敬愛園に入所した。川邊さんは、当時の社会的差別を次のように振り返った。

 「鹿児島は強かったですよ。だからまあ、(無らい県運動は)一般的には鳥取とかね、愛知とかね、言われてますけど、それはもう鹿児島も涙なかったですね」

 川邊さんが収容される前に受けた差別も、およそ人間に対してすることとは思えないほど卑劣極まるものがあった。

 「私が小学校6年生になって、やっぱり学校に来るなってわけでしょ。『(療養所に)いつ行くんだ。早く行け』と。そういうふうに罵られた」

 下級生は川邊さんに向け、寄って集(たか)って石を投げ「もう来るな」と言ってきた。先生たちも川邊さんから逃げ回り、職員室に固まった。

 皮肉な話だが、敬愛園の園長から早期の治癒を予想されたことも相俟って、収容時の川邊さんの表情は「にこにこ」していたという。社会にいるよりも、差別の根源となっていた療養所が「逃げ場」のように感じられたのだろう。

家族とのご関係と療養所生活

 川邊さんの母親も、患者の家族として心苦しい生活を送らざるをえなかった。

 「私がハンセン病を発病したということで、これはえらい病気がうつったんだということでおふくろが責められて、おふくろは親父のおふくろとか親父に対して『申し訳ない。申し訳ない』って言ってましたね。息子を病気にさせてしまったことをね」

 無らい県運動による差別を受けていたことから、母親は川邊さんが実家で生きていくことはできないと考えた。そこで、自らが家族一緒に暮らせる環境をつくることを約束して、川邊さんに1年間だけ療養所で生活してくれるように頼んだという。川邊さんもその提案に納得し、敬愛園に入所することを決めた。二人の妹は、家族と離れそれぞれ別の親戚のもとに預けられたという。こうして家族は全員バラバラの生活を送ることになった。

 川邊さんが入所して1年が経っても、社会復帰することはできずにいた。家族のもとに帰省することはできていたが、それまで住んでいた住居ではなく、誰も知らない場所でしか会うことができなかった。そんな窮屈な日常を過ごす中でも、川邊さんの支えとなっていたことがあったという。

 「やっぱりね、やけになりそうでも、おふくろが頑張っているというね。妹2人も頑張っているというね」

 社会的差別によって遠く離れた地で暮らさざるをえなくても、心は通じ合っていた。

 中学卒業後、川邊さんは長島愛生園(岡山県瀬戸内市)内の邑久高等学校新良田教室(4年制)に3期生として入学した。3年生からは執行部としての活動に取り組むなどしたそうだ。

 高校生活一番の思い出については、「自分でボートを漕いでね、島を抜け出してみようと思ったことですね。小豆島に渡ってみようと思ったことです。勉強なんかそんなものしてられるかってね」と笑顔で話した。ボートを漕いではみたものの、外国船が多い瀬戸内海は波が高く、すぐに引き返すこととなった。その件は学校で大騒ぎになっていたこともあって、「恥ずかしかった」と当時のことを懐かしそうに教えてくれた。

社会復帰と結婚生活

 1961年、新良田教室を卒業したのと同時に社会復帰を果たす。社会復帰後すぐには就職せず、予備校に通ったという。退所した時点では、ハンセン病の既往がわかると、それを理由とした就職拒否が普通にあったことから、最終学歴が「邑久高等学校新良田教室」ではなく、大学であることを望んだのだった。

 しかしながら半年ほど予備校に通ったあと、ひとまず就職することに決め、鹿児島県内の本屋に就職した。その後、職を転々とすることになる。ただ、応募の際、履歴書に学歴は嘘偽りなく記載しても差別を受けることはなかったそうだ。川邊さんはその理由について、鹿児島と岡山の間には地理的な差があることから、新良田教室のことは鹿児島ではあまり知られていなかったのではないかと推測する。しかし、「なぜ岡山の高校に通ったのか」と面接で聞かれた際には、「親戚が住んでいた」と嘘をつかざるをえなかった。

 「就職したときの嘘というのは、一生残りますよね。そういうところでどんな話をしたか覚えておかないと、山かけられたら一発で終わりだからね。嫌ですね。嘘を重ねるっていうのはつらいですね」

 高校の名前を見て差別をされなかったとはいえども、ハンセン病に罹患したという事実が、川邊さんの社会生活にとって大きな重しとなっていたことは言うまでもない。

 その後鹿児島県内の2つの会社に勤めたあと、1964年、キャリアアップを求めて鹿児島経済大学(現・鹿児島国際大学)に入学し勉学に励んだ。卒業後は再度就職したが、退職するまでに合計15職ほどを転々とした。病気が周囲にばれたり、再発する度に職を変えざるをえなかったのだった。

 1969年にはハンセン病を再発し、敬愛園に再入所した。半年ほどの治療で退所することができ、同時に敬愛園の看護師だった女性と結婚した。その後は、再発した際に駿河療養所(静岡県御殿場市)や多磨全生園(東京都東村山市)に再入所しながら、会社勤めを続けてきた。

 結婚生活について伺ったところ、「子どもができなかったからね」と悲しげに話した。

 「私がセーブしたっていうか、結局ハンセン病の子どもをつくっても仕方がないっていうか。それは大きかったですね。自分の責任じゃないですか。それはもう仕方ないっていうか。家族にもこれ以上迷惑かけたくない」

 社会復帰すれば、療養所の中のように断種や人工妊娠中絶が結婚の条件とされることはなかった。しかし、川邊さんのお話からは、その療養所内の呪縛が社会での結婚生活にまで及んでいたことがわかる。改めて、「人生被害」という言葉の意味を知った気がした。

「差別」が引き起こすもの

 また、川邊さんには地元に帰っても「大きな顔」をできない理由がある。

 「私と今付き合っている人は、私の今の顔が普通なんですよね。普通に付き合ってくれてるから、別にハンセン病に罹っていると思わないわけだからね。私は東京にくるときは、眉毛がなくなった、なくなりかけたというのが一番のショックで、まず田舎に居れなかったですね」

 他人からしてみると、「小さなこと」なのかもしれない。しかし、ハンセン病の後遺症で眉毛が薄くなったことが、川邊さんの心に大きな傷を残している。「逃げ隠れする心」が出てきてしまうという。ハンセン病への差別がその傷をつくっているのだろう。

 「だから、田舎に帰って、鹿児島に帰って、大きな顔できないっていうのはそういう理由なんですね。私の以前の人相を知ってる。それがね、自分の一番の劣等感なんです。つい最近知ったんです。川邊さん普通の人ですと言われても、普通の人かもしれないけど、私は昔の自分じゃないっていうのがあって、そこに劣等感がある。姿かたちが変わったっていうのが、一番大きなことですね。見た目の問題っていうのが」

 鹿児島に帰ると、眉毛でハンセン病だったということがわかってしまう恐怖と今も闘い続けている。川邊さんは続けてこう話した。

 「友達もたくさん失ってきましたね。ハンセン病たるがゆえにというか。ハンセン病を意識するがためにというか」

 地元とのつながりも、友達とのつながりも、「差別」は簡単に断ち切ってしまう。築き上げた時間を嘲笑うかのように、一瞬にして。

 川邊さんからは、ハンセン病に対する「差別」の意味を考えさせられる証言をいくつも聞くことができた。

 「私がね、昭和28(1953)年に見たのは、職員が手もない足もない義足の人を海岸に運んで行って、海岸の砂浜に置いて帰ってきた。目撃してますから、私が」

 その入所者は、そのまましばらく浜に放置されていたのだという。

 「浜にね、そこまでは水は上がってこなかったかもしれないけど。昔はね、不自由者の人でも職員に文句を言う人がいたわけですよ。体は不自由でもね」

 療養所では軽症者、不自由者にかかわらず、職員から許しがたい暴力を受けていたことは知っていた。そのすべてが、強く非難されるべきことは言うまでもない。そのうえであえて申し上げれば、不自由者に対して職員がした仕打ちについて、ここまで悲惨な証言を聞いたのは、私自身初めてだった。なぜこんなことが起きたのか。川邊さんは、次のように語る。

 「いじわるですよね。あいつは気に食わないから、食らわしてやれって言ったようなね。だけどそんなものにね。障害者の人をね」

 先述のように、療養所内では結婚の条件として、断種・人工妊娠中絶が義務だった。

 しかしながら、妊娠後中絶されずこの世に生を受けた方々もいた。そういった方々も今年6月に判決が出た家族訴訟の原告となっていた。親と一緒の生活を送ることができなかったことから保育所に入れられたり、親戚に引き取られたりしたという。

 その中でも保育所で育った方々の実態について川邊さんが放った言葉は、あまりにも衝撃的だった。

 「保育所に入れられた人たちは、もっとひどいんですよ。実験されてる。私なんかもいろんな新薬を打たれたりとかして、入院をさせられたこともありますよ。だけど、えぐりとってるんですよ。筋肉を。どこに植えようとしたのか、ハンセン菌を。何をしようとしてたのかわかりませんけど。それは、今回の裁判の中で発言されてますから」

 こうして、「未感染児童」と呼ばれたハンセン病患者の子どもは「差別」の犠牲になったのだった。これが現実に起きたことなのだとすれば、逆に何が許されなかったのか。

 「保育所の子どもを実験台にしたわけですよ。モルモットにしたわけですよ。ハンセン病に罹ってないから、罹るかどうかを。だから未感染児童は『お前たちすぐ病気になるんだよ。来年のうちに発病するんだよ』と言われた子たちをモルモットにしたわけですからね」

 この文章を書いているこの瞬間、私は言葉を失っている。

川邊さんにとって「差別」とは

 そして、川邊さんご自身の一番大きな差別体験を聞いた。

 川邊さんが高校時代を過ごした長島愛生園は、瀬戸内海の島の中にある。そのため、参考書などは自ら島内で調達することが難しく、先生方に買って来てもらう必要があった。

 「先生方に『参考書を買って来ていただけますか』っていうと、『ああ、いいよいいよ』『お金持ってこい』って言われて、お金を1000円、2000円持っていくと、先生方が教室と職員室を行ったり来たりするたびに、手洗いをしていたときに使っていたクレゾール液があった。その中にそのお金を『ぴょっ』と無造作につけて、それから1時間くらい漬けといて、教員室の窓から、それをぺったんこ貼ってる」

 また、先生方は新良田教室の生徒が使ったボールなどを、帰る支度をしたあとは絶対に触らなかったそうだ。同じ学校で生活していても、先生方はハンセン病に対する誤った理解を持っていたのだろう。

 「心が寂しくなっちゃうんですよね。なんだ、先生なのにこんなことだったのかと思うと、頼まなければよかったって。もう触らんでいいわと。こんな学校来てくれてありがとうと思ってるのに、もうしらけちゃうというかね。そういったものを、こびりついたものを取り除くことはできませんね」

 さらに、住んでいた邑久町内からの差別もあったという。

 「その邑久という町内が、もう町内と職員と患者が全然違う。顔が違うわけだから、みんな知ってるわけですよ。(町内の人が患者を見ると)嫌な顔するわけね。だからね、遠くまで、2駅くらい、バス停も(療養所から離れた)先に行って乗るとか。あれは嫌でしたね。消えませんね」

 川邊さんの中で消えることがない「差別」。それはその人生に、暗い影を落としてきたことだろう。では、川邊さんは「差別」についてどう思っているのか。

 「差別というのは、曲者ですね。大嫌いだけど。だけど、それとともに生きていかなくてはならない。文明を与えられた人間としては、それと闘いながら、後世にね、そういったものができるだけなくなればいいなあという風に思うだけかな」

 父親は社会的圧力を受け入所せざるをえない状況に追い込まれ、母親は村八分に遭い、2人の妹も家族から引き離された。そして、川邊さんご自身は、小学5年から自らに向かってくる差別の矛先を何とかよけながら生き抜いてきた。川邊さん、そしてそのご家族を含めて、ハンセン病問題の当事者が苦しんだ「差別」。これをどうやって解決していけばいいのだろうか。

 「そうね、どうしてほしいかね。それは対人間の問題だから、人間扱いしてくれればいいってことかな」

 「人間扱い」するということの意味。同じように暮らしていても、同じ人間とは思われていない人たちが今もこの世の中で苦しんでいるということの意味。

 川邊さんのご指摘は、人間ならば生きていくうえで誰にでも認められる人権を享受できていない人たちがいるということを、より強く意識させるものだ。その人たちが「幸せ」を手にする土台は、「人間扱い」されずにいることに伴って、あまりにも小さくなっていると言えるだろう。


強制隔離政策はなぜ始まったのか

 日本社会は、ハンセン病に罹患した方々やそのご家族を「人間扱い」してこなかった。その罪の重さを、川邊さんの半生を振り返ったとき改めて心に刻みたい。

 この非人間的な扱いの根源は、何と言っても強制隔離政策だろう。国や社会が「恐ろしい伝染病」とあおり、各県では無らい県運動が行われた。胸が苦しくなるほどの差別が続いたことの意味を今後も考えていきたい。

 では、なぜこの強制隔離政策は続いたのだろうか。

 全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)事務局長の藤崎陸安(みちやす)さんにお話を伺ったところ、次のように説明してくれた。

 医者や行政官といったハンセン病問題を差配していた者たちは、日本からハンセン病を根絶させることを至上命題と捉えた。そこで、どうすれば日本からハンセン病患者がいなくなるかを考えた。そのために一番手っ取り早い方法は、患者をかき集めて1か所に収容し、収容した場所は社会からは見えないように隠してしまうこと、患者の一生をそこで終わらせることだったという。

 「全く外に見えない状況にしちゃえば、それは外には偏見差別はないわけだよ。(社会にいる人たちは)そんなこと知らないから。それはそういう意味で考えれば、成功するわけよ。しかし、人の一生、人間の一生を考えたときに、それは正しいかっていうと、正しくないわけでしょ」

 日本のハンセン病の権威たちは、ハンセン病根絶のためには強制隔離が最も有効と主張した。療養所で一生を終わらせることが唯一無二の答えであるかのようにして、小笠原登氏ら隔離政策に異を唱える専門家の意見を「邪推」と断じてきたのだった。

 日本での強制隔離政策が始まる以前から、らい菌の感染力の弱さや絶対隔離の非合理性が議論されてきた。しかし日本は、1907年に「浮浪らい患者」を取り締まり療養所に隔離することを定めた「癩予防ニ関スル件」を制定した。明らかに時代錯誤なこの政策はなぜとられたのか。以下のような藤崎さんのご指摘によれば、隔離政策が始まった時代背景が影響しているという。

 日本は明治の初めから中頃にかけて、日清戦争と日露戦争に勝ち、世界の列強国の仲間入りをした。そうすると、外国から要人などを招待することになる。日本に来た招待客に対しては、神社仏閣という世界に誇る木造建築を案内することで、もてなしたりした。招待客が建築物に大きく感動しても、足元を見たら軒下に「一番みにくいところを見られるような」ハンセン病患者が生活している。それが目につくと、日本は世界から揶揄され、国としての「見てくれ」もよくない。

 「こんなことが国として、列強の仲間入りをするにはちょっと恥だと。それをなんとかしなければいけないというところから始まった」

 こうした考え方が終生絶対隔離政策に結びついたという。患者の治療を目的とするわけではない、隔離を目的とする法律を制定し、警察権を使って患者を収容することも正当化した。それが1996年のらい予防法廃止まで続いたのだと。

「幸せ」を手にするために

 国のため、国の「見てくれ」のために、都合が悪ければその人たちの人生を奪うことを正当化する。これが、川邊さんが話してくれた「人間扱い」からかけ離れた大きな原因だったと言えるだろう。

 「幸せ」な日常はこうして奪われる。真っ当に生きたいと思っている人、精いっぱい生きたいと思っている人から、その人たちにはどうすることもできない理由で奪う。この強制隔離政策は、紛れもない国家犯罪であったといえるのではないだろうか。

 人の「幸せ」を奪うということ。その意味を、川邊さんと藤崎さんの証言から感じ取ることができる。では、どういう意識でハンセン病問題を捉えればいいのか。そして、「幸せ」を手にするためには何が必要なのか。

 ハンセン病回復者で、長島愛生園で語り部として活動された金泰九(キム・テグ)さんは、生前、次のように語っていた。

  「ハンセン病」を学ぶのではなく、「ハンセン病」から学んでほしい。

  (佐久間建先生講演会「ハンセン病を学び、伝えるということ~学校現場から~」より)

 いつも意識していることがある。ハンセン病問題を学んだ人間として、他の差別問題や人権問題、生きづらさを抱えながら暮らす人々の訴えに目を向けられる感度を育てていこうと。そして、心を通わせていこうと思う。喜びや悲しみ、怒り、いろんな感情を共有していこうと思う。

 「恐ろしい病気」「おかしいヤツ」「かかわらないほうがいい」・・・「差別」によって生まれるこれらの感情は、人間が心を通わせ、同じ人間として生きていこうとする土台を根本から崩してしまう。そうして人は、少数者、弱者を拒絶していく。

 拒絶するのにも、様々な原因があるだろう。拒絶の対象となっている人たちが、意味もない理由でレッテルを貼られ差別を受けていること。自分の無知がゆえに、一方的に排除していること。かかわりもしていない段階で、自分の中で恐るべきものという像ができあがっていること・・・・もし、今までこうした理由で拒絶してきた相手がいるとしたら、一度立ち止まって考えてみるようにしたい。そして、できるだけ生身の人間どうし関わるようにしたい。お互いの顔を見合い、その人生に触れることで拒絶は無意識のうちに消えていくはずだ。

 日本史上最大級の差別をもたらしたハンセン病問題は、悲しき負の遺産ではある。しかし、私は「差別」の卑劣さも去ることながら、少数者、弱者への意識、人との接し方など、人間としての生き方を学べている。その他にも、各々この問題から学べることがあるのではないだろうか。

 「ハンセン病」から学ぶ。金さんの思いを次世代につなげていきたい。

 この「ルポルタージュ ハンセン病問題」シリーズで、私は自分の過去を明かしてきた。理由は様々だが、私がハンセン病問題に取り組んでいる理由でもあるからだ。

 思えば一時、大学復学は厳しいかと思われていた。正直なところを言えば、同世代が奮闘する姿を見るたび、悔しさやつらさで胸が締めつけられるような気持ちになった。2019年の春に復学し、今こうして筆を執れていること自体、はっきり言えば奇跡なのだと思う。

 自分の性的な感性、そして病気に対する差別によって負った心の傷は、今も完全には癒えていないのが実情だ。しかし今自分には、私のことを心から愛し、理解し、守ってくれる存在が増えた。その人たちの顔を思い浮かべると、日常の中で感じられる差別によっても、私の「幸せ」を奪うことはできないのだという強い思いを持つことができる。

 2019年の学祭休み、私は母と様々な場所に足を運んだ。好きなアイドルのコンサート、古本屋めぐり、そして全生園まつり。私の人生で、最も「幸せ」を感じられる時間だった。

 こうして今、私は「幸せ」を感じられる時間を手にしている。この人生をもう手放したくない。第2、第3の私を出したくない。

 前回のルポでも書いたが、徐々に私はカミングアウトを始めることができている。そして、少しずつその「強い石」も動いていくのだと感じられる出来事があった。

 2019年のある日、私が抱えている性的な問題に関する議論に参加した。自分が当事者だとは明かさなかったが、公共の場では初めてその問題について口を開くことができた。指摘をする瞬間はかなり勇気がいったし、話し始めたときには微妙な反応もあった。だが、そこにいた20人弱の皆さんにとっては新たな発見だったようで、最終的には私の訴えが届いたように感じた。

 この一歩を踏み出すまで、約13年かかった。でも、この一歩は今後の闘いの大きな支えとなってくれるだろう。社会はこうして変わっていくのだと、少しずつ感じ始めている。


「勇気あるチャレンジ」に対する敬意を

 私が社会に問題を訴えることができた大きな理由として、ハンセン病問題を学んできたことがある。

 多磨全生園の入所者自治会長を務めた佐川修さんが生前話していたように、ハンセン病問題の当事者は「自分の力」で権利を勝ち取ってきた。そのことについて強い誇りを持っている。当事者の思いは様々であるだろう。ただ、あれほどの差別を受けても生き抜いてきたという事実、闇の中に光を見出すために自らが闘い抜いてきた歴史は永遠に消えることはない。そういった方々と何度も接する機会を得たことで、いつの間にか私も闘う決意が育まれていた。これもまた、「『ハンセン病』から学ぶ」ということなのだと思う。

 時代を超えて、私はハンセン病回復者、そのご家族という勇敢な戦士たちと心が通じ合っている。このルポを書いている今も、ともに闘っているように思えてならない。

 私は今後、ハンセン病問題にとどまらず、より多くの差別問題の当事者と、そしてその人たちを支援する皆さんと心を通わせていきたい。ともに闘っていきたい。だから私でよければ頼ってほしい。もっともっと、自分らしく生きていきたい。

  世界は変わる。しかし黙っていて変わるわけではない。「正しさ」はたいてい少数者、弱者の勇気あるチャレンジから始まる。そしていつの時代も、道を拓こうとする人の歩む道は険しい。

  女性、障害者、性的少数者―今も様々なチャレンジが進行中だ。変わっていくことこそが人間の営みであろう。勇気への敬意、それを忘れまいと思う。

(「夭折の女性記者 色あせない勇気」『朝日新聞』日曜に想う、2019年8月4日、朝刊、14版、3面)

 これは、2019年8月4日の朝日新聞のコラム「日曜に想う」で、福島申二編集委員が結びの言葉として書いた一節である。

 川邊さんがおっしゃったように「差別は曲者」だ。その「曲者」は、誰もが人間として認められる権利を奪ってきた。しかし、その「差別」と向き合ってきた多くの人々の「勇気あるチャレンジ」によって、世界は着実に前進してきた。

 今、「差別」と闘っている方々はむなしさを覚えることもあるだろう。どれだけ主張しても変わらず、暗澹たる気持ちになることがあるかもしれない。私も例外ではなく、今後とも理解されない不安と闘い続けていかなくてはならない。

 だが、10年後、50年後、100年後、必ず世界は変わっていると信じていたい。自分が生きている間では実現できなくても、闘いの足跡を残すことで後世に「幸せ」を届けていきたい。ハンセン病問題の当事者は、何十年間にもわたる闘争によって権利を手にしてきた。志半ばでこの世を去った先人の思いも、今この時代にしっかりと引き継がれている。だから、何も悲観する必要はない。

 すべての人が「幸せ」を手にするための「勇気あるチャレンジ」は、今この瞬間も行われている。多くの人には気がつかない試みだとしても、そのすべてが掛け値なしに素晴らしい。

 ハンセン病問題から学んだ我々が持つべきなのは、その「勇気への敬意」であろう。

 「勇気あるチャレンジ」とその「敬意」によって、社会はこれからも前進していく。心温まる「幸せ」な光景が散りばめられる世界に向かって、歩みを止めることなく、まっすぐに。


多磨全生園納骨堂



追記

 今回の執筆にあたっては、大変多くの皆様にご協力やご示唆をいただきました。

 予定時間を大幅に超えたにもかかわらず、最後まで私の取材に快く応じてくださった川邊嘉光さん。強制隔離政策が始まった理由、続いた理由について新たな視点を提供してくださった藤崎陸安さん。2019年8月に行われた講演会でご自身の経験と詳細な資料から、ハンセン病問題学習・研究の重要性を教えてくださった佐久間建先生。その他にも、お礼を申し上げたい方がたくさんいます。

 私と関わってくださるすべての皆様の支えがあってこそ、取材や執筆に臨むことができているのだと改めて実感しております。今後とも、ハンセン病問題や日本の差別問題を中心に取材や研究を進め、すべての人の人格が尊重される世の中を形作れるようなルポルタージュを執筆してまいります。

 本当にありがとうございました。


<参考資料等>

「判例時報 2001年7月21日(1748号)」(判例時報社、2001年)

「夭折の女性記者 色あせない勇気」『朝日新聞』日曜に想う、2019年8月4日、朝刊、14版(3面)

国立ハンセン病資料館2F常設展示

佐久間建先生講演会「ハンセン病を学び、伝えるということ~学校現場から~」(於:国立ハンセン病資料館、2019年8月25日実施)

 
 
 

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