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ルポルタージュ ハンセン病問題2~「身近な人」を、大切にするということ~

2020年5月20日
読了時間: 21分

2019.10.20脱稿


多磨全生園「人権の森」


 世の中には「意識」しなければ見えないこと、気づかないことがある。社会がそれらを想定していないがために、自分を隠しながら生きている人たちがいる。

 ハンセン病回復者とそのご家族は、まさにその「無理解」「無関心」による「差別」と闘いながら生きてきた。残念ながらその「差別」との闘いは、今なお続いている。ここ数ヶ月、様々な現場に足を運び、自分の既往や家族に回復者がいることを、カミングアウトできずにいるハンセン病問題の当事者の多さに驚かされた。それほどまでに植えつけられた「差別」の恐ろしさ。そこに思いを馳せたとき、つい最近までこの問題を知ることもなかった自分の無関心に、忸怩たる思いがした。

 現在、当事者の高齢化により、ご本人の口から「差別」の実態を証言してもらうことが難しくなってきている。証言するというのはとても勇気のいることで、精神的にも体力的にも覚悟が決まらなければ、なかなかできるものではない。それなのに、国の啓発が進んでいる様子は感じられない。

 回復者からよく聞かれるのは、「もう時間がない」という言葉だ。回復者を交えて「人生被害」を引き起こした「差別」の意味を考えることができる時間は、少なくなってきている。

 ハンセン病問題を通して、日本の「差別」をどう考えるべきか。

 その意味を考えるため、国立療養所多磨全生園(東京都東村山市)に入所されている、回復者の平野智(さとる)さんのもとを訪ねた。

 「差別は何年経ってもなくならないとは思うけどね、でも、少しでもそういうことをなくしていくという努力をしないと。人がしてくれるわけじゃない。自分がしなきゃならないんだから」

 小学生のとき強制収容を経験し、社会の矛盾を感じてきた平野さん。現在、80歳という年齢になっても、講演や多磨全生園で入所者の「保護者」としての活動をされている。私の長時間の取材に応じてくださったのは、ハンセン病問題を「意識」の外に置いてほしくない、なかったことにしてほしくないという、強い思いがあったからだと感じている。

 LGBTQ、障害者、性暴力被害者、そしてハンセン病問題の当事者など、日本には「声を上げられない」人たちが多くいる。平野さんの半生を振り返ることで、日本の「差別」のかたち、そして、日本社会が克服すべき課題が見えてくる。

ハンセン病の発症と強制収容

 平野さんは1939年、愛知県に生まれた。ハンセン病の発症は、小学3年(8歳)のときだった。再婚した父の連れ子の2番目の兄からの、濃厚接触による感染だったという。初期症状として、太ももの知覚麻痺が現れ、仲間内では「いくらつねっても痛くないぞ」と自慢していたそうだ。

 平野さんのご家庭は裕福ではなく、食料状態がとても悪かった。ハンセン病は、衛生面や栄養面が発症と大きく関係する病気だ。食料状態や衛生状態が悪い場合、抵抗力がなくなり発症しやすくなることがわかっている。今の日本で発症がほとんど確認されないのは、そういった理由からだ。

 発症から3年ほど経った小学6年(11歳)のときだった。1学期が終わったあと、父の連れ子の2番目の兄と平野さんが保健所に呼ばれた。そこで告げられたのは、「2学期から学校行かなくてよい」という言葉だった。

 当時、ハンセン病に関する情報は各地の保健所が全て把握していた。平野さんによると、父の連れ子の1番目の兄もハンセン病に罹患し療養所にいたこともあって、保健所が平野さんご一家の情報を詳しく知っていたのではないかとのことだった。平野さんがハンセン病に罹患したという情報は周囲に知れ渡り、夏休みに入った途端に「今まで遊んでくれていた友達は、一人も近づいてこなかった」という。このような差別に遭いながらの生活は、同年の11月まで続いた。

 そして同年12月、当時住んでいた半田市から東海道本線大府駅まで、父の連れ子の2番目の兄と一緒に、保健所の幌付きの車で連行された。駅で降ろされ、保健所の職員から「どこも触るな」と言われながらホームを歩かされたという。職員は、平野さんらが歩いた場所に消毒剤を撒きながら、後ろからついてきたそうだ。ホームにいる人は、不思議そうな顔をしてその様子を見ていたという。その後、ハンセン病患者専用の「お召し列車」に乗せられ、そのまま駿河療養所(静岡県御殿場市)に強制収容された。平野さんが強制収容されたのに加えて、当時家族で住んでいた2軒長屋の市営住宅の一室が戸板で囲われ、部屋の中が真っ白になるまで消毒されたそうだ。

 平野さんに、ご自身の強制収容についてどう思っているのかを尋ねたところ、「当時の政府のやり方からいえば、強制隔離されるのは当然だったかなって思いはあるね。受け入れるしかない」と話し、さらに次のように続けた。

 「だって、保健所から学校行かなくていいって言われるんだから、学校行けないでしょ。僕が引っ越しをすれば転校生で入れるかもしれないけども。だからそれによって、自分の症状がどういう風になっていくかっていうのもわからないから」

 明治時代以来、ハンセン病に関する国際会議の場では、ハンセン病の感染力は極めて弱いことが継続的に確認され、プロミンの登場以来可治の病であることもわかっていた。しかし、この国はそういった情報に基づかず強制隔離政策を継続した。平野さん、そして平野さんのご家族もまた、国の過ちの犠牲になってしまったのだった。

厳しい入所生活での葛藤 

 駿河療養所に入所後は、少年舎で過ごしながら中学卒業までの学校生活を送った。卒業後は、療養所内での患者作業に従事させられたそうだ。

 「(患者作業の中で)一番怖かったのはね、(あと)2、3日で危ないんじゃないかって人にね、横にベッドを置いて一緒に寝てたときは、ほんと怖かったね。その人がいつ死ぬかわからないのに、自分が15歳という年齢でその人の看護しなきゃなんないわけだから」

 そのほかには、盲人や手足に障害がある人が暮らす20畳の雑居部屋で、朝早くから食料の準備や生活の補助などをしていたという。

 療養所には職員がほとんどおらず、医師や看護師も不足していたため、入所者は自分たちの生活を自分たちで回す必要があった。平野さんのように、あらゆることに不慣れな年齢でも、精神的な負担が極めて大きい作業に就かされた方もいたのだった。

 その後、平野さんは長島愛生園(岡山県瀬戸内市)内の邑久高等学校新良田教室に2期生として入学し、4年間の高校生活を送った。

 「朝5時頃から起きてテニスやって、朝飯食って、野球1日3試合くらいやって、夕方までバレーボールやった。そんなことばかりやっていた」

 夏休みでも土日でも活発に運動に取り組み、充実した日々を送っていたようだ。

 愛生園で生活していたとき、駿河療養所で暮らしていた父の連れ子の2番目の兄から、平野さんのご家族が京都にいることを聞きつけた。医師から帰省許可をもらった際に、その住所を訪ねたという。しかし、そのときに大きな葛藤を感じた。

 「そのときは、家も間借りのような生活してたから、僕が行っても(他人に)自分の子供だ、自分の親だってことは言えないわけ。行ってないから。会ってないから。だから親も兄弟も、自分の甥っ子だっていうような紹介しか、近くの人には言ってないから。兄弟としての話の仕方はなかったね」

 自分の家族とコミュニケーションをとることさえ、「差別」が強い社会状況では人目を気にしてなかなかできない。家族との関係を隠し通さねばならないほどに、社会は当事者に苦しみを与えてしまっていた。

社会復帰と再入所後の「人体実験」

 1960年、平野さんは高校卒業と同時に社会復帰を果たした。その後木工所、機械工場、塗装工場で働いた。平野さんにはハンセン病の後遺症として負うこととなった、手の母子対立と発汗に関する障害があるが、それは他人からは気づかれることなく働くことができたという。

 だが、社会復帰中「一番つらかった」という出来事がある。大阪の被差別部落出身の人たちと仕事をしていたときのことだ。

 「(被差別部落出身の人たちに)『癩病ってのは怖い病気だ。鼻はもがれる、目はつぶれる、手足は切られてなくなっていく』っていう話をされたの。その場で、5、6人いるところで。その中に僕は話に入っていけないじゃない。当事者だから。黙って聞いてたの。あれがね、やっぱ一番つらかった。そこでね、やっぱ自分が『自分もそうだよ』って言えないじゃない」

 差別を受け、痛みを知っているはずの被差別部落出身の人たちでさえ、ハンセン病に対する差別感情を持ってしまう。啓発が進まない社会においては、差別された人どうしも共感し合うことができないのかもしれない。その中で疎外感を味わった平野さんのつらさは、想像に余りある。

 平野さんが社会復帰した頃は、高度成長期真っ只中で、徹夜で仕事をすることもあったそうだ。そのため「相当無理はしてた」という。

 1963年、仕事の休みをもらって愛生園に行き診察を受けたところ、医師から「これじゃだめだ。療養所戻ったほうがいいよ」と言われ、仕事を辞めて駿河療養所に再入所することになった。

 症状が落ち着いてきた1965年、全生園に引っ越した。全生園では1、2年の休養後、全患協の活動に従事した。

 「赤電話一本」の時代、各園の陳情を記録してまとめるなどの執務にあたった。「今はとてもできない」というその生活は、忙しいときには朝早くから真夜中まで業務に時間を割く日々だった。

 平野さんは全生園でも、ハンセン病の治療をしていた。現在、ハンセン病の治療には、WHOから多剤併用療法が推奨されており、その一つとして結核の治療に使われるリファンピシンが使われている。平野さんもこの薬を使っていた。しかし、私は平野さんの口から発せられた言葉に唖然としてしまった。

 「リファンピシンを一番最初に使ったのは、たぶん僕。人体実験。(ハンセン病の治療科の医師が)『これ飲んでみるか』っていうんで飲んでみた。当時は1日に6錠くらい飲まされたかな。看護師から尿が真っ赤になるってことは言われてた。たしかに真っ赤になった」

 これまでも、臨床研究などは一定の条件の下で行われてきた。しかし、当時は確立した治療法とは言えない状況でのリファンピシンの人体実験をするというのは、果たして許されることなのだろうか。複数の回復者の証言から、平野さんをはじめハンセン病に罹患した方が、治療法も確立していない段階で、薬の人体実験に利用されていたことがわかっている。

 一方で、平野さんは次のように続けた。「ただ、そのおかげで治療しなくてよい状態まで近づけたかなと思う。『効いてきたぞ』ということを聞いて飲んだ人もいるし、逆に飲んで悪くなった人もいる。その人の体調、免疫力をみて量を決めていった。そのあとの人はもっと少なくしたはず」。

 だが、私は次の言葉が頭から離れなかった。

 「いわゆるモルモットになって始めたのが、僕が最初」

 平野さんご自身は、リファンピシンを服用していた当時を振り返って「(そのときは)どうにでもなればいいやという気持ちもあったから。人体実験されてるってかんじもなかったから」と話していたが、果たしてこの事実をどう捉えればよいのか。

 様々な科学的成果は、実験の積み重ねによって確立されてきたことを考慮に入れても、身の置き場がない方々の隙につけこみ、死者まで出すこととなったハンセン病患者に対する人体実験を、私は許すことができない。皆さんはどう考えるだろうか。


講演活動と「保護者制度」

 平野さんは近年、講演を依頼されるようになっているという。都内の中学生に年1、2回、出身地の愛知県でもこれまでに何度か自身の経験を話してきた。しかし、そこで感じる葛藤がある。

 講演が終わったあとに「質問ありませんか?」と聞いても、「質問する人はまずいない」。

 その講演を聞いた人が、ハンセン病問題のことを理解してくれていないのではないかと平野さんは危惧する。

 質問をされたときでさえ、引っかかりを覚えたことがある。中学生の代表者が「楽しかったことはどういうことでしたか?」と質問してきたそうだ。

 その質問をされたときは「楽しいってことは何もなかったよ」としか言えなかったという。

 「病気になってね、強制収容されて療養所に入れられてね、『何か楽しかったことはなかったですか?』って言われても、ないとはいわないけども、それほどね、こういうことが楽しかったっていう話はできないよ」

 国や社会の過ちのもと、平野さんの人生を狂わせてしまったことの意味を考えたとき、社会のハンセン病問題に向き合う姿勢が、今のままでいいのだろうかと考えさせられる。今では平野さんのように講演をしてくださる方はとても少ない。そのことを踏まえると、当事者の貴重な証言を聞ける機会を無駄にしてはならないと、改めて思わされる。

 現在平野さんは、全生園で生活しながら、入所者の保護者として10人ほどの世話をしている。「保護者制度」とは、入所者が体調不良や病気を患ったときに、その人の身の回りの世話をする園内の制度だ。平野さんは、保護者として過ごす中で次のように感じるという。

 「別に保護者やりたくないの。大変だから。福祉(課)にも言われてるの。ケースワーカーに。『智さん、もう保護者やらないほうがいいよ』って。ただ、その人たちからしてみれば、自分が死んだときのこと考えると、葬式を出してもらいたい、挨拶してもらいたいっていうのと、火葬場行く人を探してほしいっていうのが頭にあると思うの。僕にはそういうことは言わないけれども。そういうのがあって、僕が元気でいるから僕に保護者やってくれって来るわけ」

 そして今は、「結局、病人がいたり不自由な人のところに行ったりすることが、自分の仕事かな」と思って生きているそうだ。入所者の方々の生活は、そんな平野さんの献身で成り立っているはずだ。

人が「差別」の渦中にいるとき

 国が誤った隔離政策を主導したことにより、「ハンセン病は恐ろしい伝染病」との考えが全国民に染みついた。このように、ハンセン病問題は、「差別」と切り離すことができない。

 では、当事者である平野さんご自身が「差別」をどのように捉えているのか。それについて伺ったところ、次のように語ってくれた。

 「『差別』っていうのはね、自分が差別されてるっていうのは、結局あの強制収容されたことによっての差別っていうものしかないから、人を差別するっていうことは、自分としてはした記憶がないから、一体その『差別』っていうのが、どういう風に受け止めていいのかっていうのが、なかなかね、自分としてはないのよね。たぶんこういうことが『差別』なんだっていうのを目の当たりにしているわけじゃないから」「僕はね、言葉としては『差別』っていうのがあるんだっていう気はするけども、実際にみんなに『差別』はこういうものだよっていう話をどういう風にしていいかっていうことはね、未だに迷ってる」

 平野さんにとっては、強制収容されたことが最も大きな差別ではあった。しかし、平野さん自身は、「差別」の意味を整理することができないでいるようだ。その意味は次の言葉を聞いたときに、より明らかになった気がした。

 「それがね、なぜそういう風なこと(強制収容)をされたっていうのが、よくわかんないじゃない。自分が。なぜこれだけのことをされるのかっていうのがね。で、療養所に入って皆の話聞いてみると、皆同じような状態で入ってる人がいるんだってことを、そこで初めて知るわけじゃない。そうすると、『ああ、これが差別なんだ』ってことは思うけども、まあ、子どもだから、そういう『差別』って話は出ないじゃない」

 「差別」の渦中にいるとき、人は自分が受けている「差別」を「差別」だと気づかない。そのときは、自分に原因があるということで納得するしかない。むしろ、時間が経ってそれまでのことを整理できたときに、ようやく気づくのかもしれない。人体実験をされていたときの平野さんに、その実感がなかったことにも通底するものがある。

 LGBTQへの差別にしても同じではなかっただろうか。長い間、同性愛や性別違和は病気などとして忌み嫌われ、社会の中でLGBTQは「想定されていない存在」だった。近年、当事者運動の結実もあって、徐々に理解が進んできている。しかしそれまでは、多くの当事者が「自分がおかしい」ものだと思い、尊厳を踏みにじられてきたのだった。LGBTQに関する問題に限らず、多くの「差別問題」の当事者が苦しんできたのは、このような構図によると考えられる。

 あまりにも情けない。社会がマイノリティーを「変わった存在」とみなし、自分たちの「正しさ」を押し付ける。「正しさ」は社会の側ではなく、マイノリティーの側にあるにもかかわらず、今まで社会はこうして多くの人の人生を奪ってきたのだろうか。だとしたら、「想定されていない存在」が今もなお「差別」の渦中にいるとして、その方々の人生はどうなるのだろうか。

 平野さんは、「健康な人」と握手することについてもためらいがあるという。

 「やっぱりね、自分の手が悪いっていうのはね、ものすごい引け目がある。我々の手っていうのは、汗が出ないからツルツルなの。汗が出る人っていうのはしっとりしてるでしょ。我々の手はツルツルだから、握手するっていうのはね、やっぱり気が引ける。相手から手(を)出してくれれば握手するけども、そうでなければね、なかなかできない。自分からは握手したいっていう気持ちは持てない」

 相手からどう思われるかわからないということが、そう感じる理由だとしたら、そこにはスティグマがあるはずだ。ハンセン病や障害に対する負のイメージが、知らぬ間に社会全体に広がり、当事者がそれに脅えている。平野さんの「引け目」は、そういった社会の「差別」のかたちを表していると言っても過言ではない。

 平野さんの半生を伺っていく中で、「差別」というものが、ここまで人の一生を狂わせるものであることがわかってきた。

 ハンセン病に罹患したというだけで、誰も近づいて来なくなったこと、治療のために入所した施設で、若くして精神的に負担が重過ぎる作業に従事させられたこと、決して許すことができない人体実験、「引け目」を感じる日常・・・そして、「差別」の渦中にいるとき、人は「差別」に気づかない。日本社会が目を背けてきた「差別」を、平野さんは味わってきた。この「差別」をどうなくしていくのか、減らしていくのか。一人ひとりが、我がこととして考えねばならない。

 平野さんをはじめ、回復者の壮絶な体験を聞くことはつらくなることも多い。だが、それを話す回復者の心中はいかばかりか。過去のつらさに向き合うことは、考えられないほどのエネルギーを使う。それを言葉にすることによる心理的な負担は、計り知れない。証言してくださるということは、それほど貴重なのだ。そう考えたとき、証言を得た我々が負うべき責任とは何だろうか。

 平野さんは言う。「僕なんかが行って話した人だとか、こうやって対面で話した人たちが、ハンセン病について話ができるかっていうことが、一番僕が感じてる。話してもらえるのかなっていうことがやっぱりあるわけ。これは誰でも同じ。大勢の人の前で話しても、こういうことがあったんだっていうことを自分の周りの人たちに、話聞いた人はいいけども、自分の周りの人たちにそういう話ができるかなって言うことが、やっぱり一番感じる。そういう人たちが順番に話していってくれれば広がっていくわけだから。そうなれば、ハンセン病っていうのは歴史的にこういう風に今なってますよってことが、進んでいくと思うのよね。それは国がやるべきことなんだけども、国はそこまでのことはやらないから。だから、我々が話すことによって、そういうことを理解してもらって、みんなに『こういうことがあるんだよ』っていう話ができる人が(いることによって)、(議論が前に)進んでいくと思うのよね」。

 平野さんがおっしゃるように、私にはハンセン病問題を伝えていく責任がある。この問題を忘れさせず、「差別」によって起こった悲劇をなかったことにしない。そのために、少しずつでもいいから、得た教訓を伝えていく。重くもあるが、やりがいのある責任だ。

伝え方:「身近な人」を大切にすること

 社会復帰した回復者やその家族でも、やはり多くの方が差別を恐れてカミングアウトできずにいる。それは、当事者の生きづらさを生んでおり、ハンセン病問題の解決にはほど遠い状況にあることを意味している。そして、「差別」の渦中にいるがゆえにその存在に気づかず、社会からの攻撃に押しつぶされてしまったという構図。今この瞬間、他の「差別問題」で苦しんでいる方に手を差し伸べるためにも、その構図について考える土台を提供していかなくてはならない。

 では、どのように伝えていけばいいのだろうか。平野さんへの取材のあと考えてみた。

 これまで、ハンセン病問題に携わる多くの方の話を聞いてきた。その都度感じたのが、「身近な人」の存在の重要性だ。

 強制隔離されても、家族が自分のことを信じてくれていたり、社会復帰後の息苦しさがあっても若い頃の友人の言葉に救われたり、「差別」を恐れて脅える日々に、支えてくれる人の温もりや優しさを感じたり・・・「身近な人」が与える愛は、確実に当事者の支えとなってきた。

 逆に、どんなに社会の理解が進もうとも、家族や親友などの「身近な人」が自分を理解してくれないとき、身の置き場はなくなるのではないだろうか。人権を踏みにじられ生きていくことすらつらいとき、信頼を寄せてきた人たちから受け入れてもらえなければ、そのときに感じる喪失感は大きすぎる。「身近な人」を守ることは、それほどまでに重要なのだと思う。

 では、そんな「身近な人」が苦しみ悶えながら生きているかもしれないことを考えたとき、皆さんはどう感じるだろうか。自分の愛する人が「差別」の渦中にいるとしたら、皆さんは何をしようと思うだろうか。

 前回のルポ「ルポルタージュ ハンセン病問題~人間の「豊かな心」は、差別では消せない~」で明かしたが、私も「差別」に脅えながら生きてきた一人だ。日本では未だ取り上げられていない性的な問題を抱え、差別的な言動に心を痛める日々だった。社会風潮による「目に見えない圧力」は激しく、初めてカミングアウトできたのは違和感を覚えてから10年後だった。その間、「差別」を発端として病気も発症。大学休学にも追い込まれた。医療界も私の苦しみに向き合ってくれたとは到底言えず、私の話を聞いて大爆笑したり、無視を決め込んだりした。その一連の対応から、私は自分の人格を全否定された気分だった。科学的にも私のような人がいることは確かなのだが、残念ながら医療界も含めて理解が追いついていないようだ。

 しかしながら、カミングアウトしたとき、真っ先に私を理解してくれたのが母だった。私の性的な感性を尊重し、私の人格を守ってくれた。そのおかげもあって最近では、徐々にではあるが私が抱えた問題を、家族以外の信頼できる人にも伝えることができている。

 相変わらず、社会からの「目に見えない圧力」はすさまじい。しかしながら、私が勇気を持ってカミングアウトすると、その問題についての知識はなかったという方がほとんどではあるが、意外にも肯定的な反応を受け取ることができている。中には、私が受けた差別や苦しみに共感してくれるのに加えて、私の感性を尊び、私に広がる世界の色に興味を持ってくださる方もいた。最近は、ようやく人間として認められたように感じている。母が私を守ってくれたことが、私をここまで導いたのだった。一方で母が、私の受けている差別に、今も向き合い続けなければならない日常は、心底つらいものがあるだろう。

 そういった事実に目を向けたとき、改めて「身近な人」の大切さが身に沁みる。もし私の「身近な人」が「差別」によって苦しみ続けているとしたら、それ以上に胸が痛むことはないほどにつらいものがある。

 だからこそ思う。ハンセン病問題の当事者や私たちのような「差別」で苦しむ人を、もうこれ以上増やしたくない。そのためにまず、「身近な人」、つまりは自分が愛する人、大切に思う人、一緒の時間を幸せに過ごせる人を守るために、ハンセン病問題を知ってほしい。

 「身近な人」を大切にするということ。その人がつらい思いをしていないか想像してみること。それが人権を守るのに一番大切なことなのだと、私は伝えていきたい。この問題を考えることは、「身近な人」の痛みを想像することに、きっとつながるはずだから。


優しさと思いやりで「差別」は動く

 「差別」の渦中にいるとき、人は自分が受けている「差別」を「差別」だと気づかない。これが、平野さんへの取材で見えてきた「差別」のかたちだ。

 回復者の方々はこういった「差別」の中で、社会の「意識」の外に置かれてきた。その中で、「人間回復」を目指して闘い抜いてきた歴史がある。我々はその闘いを継承し、伝える責任がある。

 そして屋根の下から、人に優しさと思いやりを持って接することで、「身近な人」を大切にしていきたい。それは極めて小さなことなのかもしれない。でも、大きなことなんてしなくていいと思う。目の前の小さなことから少しずつ取り組んでいく。そしてそれが生きづらさを取り払っていく。そんな連鎖は、確実に起きていくはずだ。

 実際、私は「身近な人」たちから受ける優しさや思いやりを徐々に感じてきたことによって、カミングアウトを始められているのではないかと思う。

 平野さんには最近、社会の理解を感じる場面が増えてきたという。

 1968、69年頃に、全生園近くの清瀬市に買い物に行ったとき、平野さんの手からレジ係の店員が代金を受け取ることは、まずなかったという。お金を「カウンターに置け」と言われ、カウンターに置いたお金を店員が受け取ったそうだ。お釣りがあるときは「手のひらを出せ」と言われ、上から手のひらにお金を落とされた。ハンセン病の既往がある人に触れれば病気がうつるという、誤った思いこみが平野さんを苦しめていた。しかし、現在はそのようなことは起きていない。

 また、前述のように平野さんは、手の母子対立に障害があり、満足に指を動かせないことも多い。一方で、社会は次のように変化している。

 「今はね、スーパー行ってもね、レジの人がね、(僕が)小銭入れ開けて『はい取って』って言えばとってくれるの」

 店員が平野さんの障害を察して、小銭入れから代金を取ってくれる。確実に社会は障害に対する「合理的配慮」を学んでいる。

 また、全生園で開催される「納涼祭」や「全生園まつり」についても、スーパーに出かけたときに尋ねられたりするという。

 「それだけね、やっぱり変わってきたなっていうかんじはする」

 店員もまた、いつもスーパーに来てくれる平野さんという「身近な人」の大切さを感じてきたのかもしれない。

 まずは「身近な人」に優しさと思いやりを持って接すること。そしてそれを連鎖させていくこと。今回私は、「差別」で苦しんだ平野さんの半生を取材し、ハンセン病問題の伝え方を考えていく中で、このような結論を出した。時間はかかるし、やっていることが正しいのかもわからない。でも、まずは自分が自分なりのやり方でやってみようと思う。

  よわい水も動いていれば

  いつかは強い石に勝つ。

  いいかい、固いものは負けるという教えだ。

 これは、ドイツ連邦共和国元大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが演説で引用した、劇作家ブレヒトの詩の一節である。

 たしかに「差別」は、なかなか動かせない「強い石」だ。しかしそれは、優しさと思いやりによって動いていく。ゆっくりと、でも確実に。




<引用文献>

永井清彦[編訳]「言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集」岩波現代文庫、(岩波書店、2015年)p208


追記

 昨年9月9日、長時間の取材に応じてくださった平野智さんに、改めて感謝申し上げます。ご自身の体験を話すのは、肉体的にも精神的にも相当な負担がかかることだと思います。いただいた証言の意味を受け止め、私なりの啓発を行っていくことを誓います。そして、今後もハンセン病問題を通じて「差別の意味」を提起し、一人でも多くの方の人格が尊重されるような世の中を形作れるように、日々努力してまいります。

 本当にありがとうございました。

 
 
 

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